本校への登下校の思い出

                    板畑  中村順平

私は小学校4年生から石黒の本校〔道のり約4q〕へ通学しました。そのころの思い出は、通学がたいへん難儀かったことです。今のような通学路ではなく、旧道で山道を少々広げたようなもので、村下からマンゾウ川の橋まで下り、そこから大野に通じる石黒山を上ったものです。石黒山の中途にダンゴノ木〔ミズキ〕があり、そこで待ち合わせて、みんなが揃うと集団で登校しました。大野集落の中は通らず横合いの道を通り大欅の立っていたところから松林を通り抜けて、上石黒の墓場の脇を横切って上石黒神社の所に出たものです。上石黒に着くと、その集落の子どもが、のっそりと登校をし始めました。私たちはもう1時間も前に家を出たのにと、大変うらやましく思いました。通学の苦労は、遠くから通学した私たちや居谷の人でなければ、分からないでしょう。そのころ、村の大半の家庭では牛馬を飼っていて田仕事や荷運搬にはなくてはならない今の耕耘機のようなものでした。その牛や馬が通学路に風呂桶半分くらいの穴をあけそこに雨水がたまっていたものでした。その穴の中に足をすべらせてはまってしまい着物を台無しにしたものでした。ほんとうにすっかり着物が汚れてしまい、そこで家に引き返し学校を休む者もいたようでした。雨の日には衣服の下半分を汚して学校へ行き恥ずかしい思いもしました。
また、松林と上石黒の墓地を通るときには大変さみしいものでした。上級生から「昔、この松林の中で、若い男女が首つり自殺したのだ、今もその魂が残っている」と聞かされ、農作業が忙しく暇をもらって一人で帰るときなど、ほんとうに冷や汗が出るほど恐ろしかったものでした。学校の授業が終わって、みんなが揃って帰るときでも、墓地と松林を通り抜けるときには気味が悪いところでした。そこまでは、わいわい話に花を咲かせて元気に来るが、そこに来ると早足になり、駆け足になって息をはずませて通り抜けたものでした。〔以下略〕


※上写真は、板畑集落から大野集落に至る、谷に下りて坂を上った昔の道のあった場所。(編集会)
              
 「石黒校百年の歩み」より