1798 〔寛政10〕「乍恐以書付奉願上候   
      
                   

※証文内容一部

・・・・・その後享保八卯年門出村庄屋六兵衛死去致し倅太郎左衛門幼少の時節を伺へ、石黒村兼帯庄屋女谷村友左衛門並びに石黒村枝寄合のもの共威勢を以て我意を申し募り、門出村愚昧の百姓を押し掠め、惣山入会などと法外なる暴斗を申し懸け及び出入りの候所、近村庄屋衆中御御扱いを以て七ヶ所内卸し山入会場の外に門出村切替え畑地やびつお取りは無し成され候て、右七ヶ所に差し加え都合八ヶ所に申しつけられ候、内三ヶ所石黒村寄合に限り支配申しつけられ候、すはた山(せいた山)山芋畑二ヶ所の儀は、往古より門出村百姓高請けの本畑家業の様に所持仕り渡世至り来り候処、代金の与えもこれ無くに存知奉り候処、小作米少しも相増斗入申さず候て、数年来私共より無地高の御年貢緒役銀とも弁納仕り候て当惑不過之存じ奉り候、はた又新規に相加え候、屋ひつ山の内門出村百姓共持ち畑十九枚並び路七間通り除き置かれ候分、此は石黒村寄合より永永構い無く御座候、言語同断我が儘に誇り愚昧の私共を押し掠め致し方申し上げ様もこれなく次第に候、何とも嘆かわしく存じ候、且つ又前々より小作米八斗宛石黒村寄合より払い斗来り候処へ・・・・・・・・・・・ 

                               門出村文書〔1〕