明治35・6年頃の学校の様子
                   上石黒 田辺清吉
 このころの学校は今の寄宿舎の所にあった。初めて建てられたのは記憶に残ってはいない。ここで2年間勉強したが、校舎が狭いということで12間の4間半の校舎が今の技術室の所に建てられ、3年生から木の香りも高い新校舎で勉強が始まった。落成式はあったかどうか憶えていない。
 生徒は、男子が圧倒的に多く、貧困家庭の子どもや女子は家で子守をさせられるので学校には通えない状態であった。

 教科書は、読本、修身、書き方〔3年生から〕の3冊だった。読本は「ハナ、ハト、マメ、マス、ミノ、カサ、カラカサ、」の順に書かれていた。よく読めるようになることと、習った字が書けるまで練習することになっていた。
 書き方のときは、新聞紙を習字用紙に寸法を合わせてハサミで切り取って練習することになっていた。新聞紙は沢山なかったので、真っ黒になるまで練習するのがたてまえであった。練習をしている時は字の形は分かるが、乾いてしまえばさっぱり分からなくなってしまう。一枚の紙に何回も何回も練習をするのでコールタール塗りをするようなものであった。
 学習用具には、石板と石筆が使われた。石板を使われるのは家庭の豊かなもので、そうでない者は、表面がザラザラしている黒い紙に〔やすり紙のような物〕書いている人も沢山いた。
 小学校は4年生までであったが、ゆとりのある人は補習科〔2年〕に入ることもできた。
 このころ田麦〔現在の上越市大島区〕に高等科が2年まであったので、補習科に入るよりも高等科に入ったほうがよいということで、田麦の高等科で勉強する人がボツボツ出始めた。
 その後、石黒にも是非高等科がほしいと言うことから、ようやくにして高等科の3年制ができた。高等科が新設されて入られるようになったのは現在、数え歳78歳の人からのように記憶している。
 学校では年1回のテストがあった。その結果が巻紙に書かれ、学年別に序列をつけて公表される慣例であった。定められた点数に満たない人には修了証書も卒業証書も与えられなかった。修了証書がもらえない人は、同じ学年で出続けて勉強するか、また、「おれはだめなんだから」ということで学校を去っていく人もあった。
 三月の卒業式になると各人が家から新聞紙を持って行きその中に先生が赤飯を茶碗に一杯ずつ入れてみんなに渡してくれた。それを家に持ち帰って、家族みんなで分け合って食べるのも楽しみのひとつであった。

             
石黒校百年の歩みより