明治27年頃の板畑校の思い出
                        中村義平治
 私は6歳〔明治27年〕の時から学校に通ったように思われる。当時は現在とことなって、家庭の都合のつくものが集まって、先生を探し、お金を出し合って依頼して学習をした。校舎はなく部落の家を借用し、そこを勉強場として使った。 生徒は5名ほどであったように記憶している。今のような教科書などはなく先生の自作のものであった。読み書き、習字、書き取りが主であった。勉強時間は午前に3時間、午後2時間くらいやった。勿論日曜日などはなかったように思う。

 明治33年、私が11歳の頃のように思われる。小学校の年限が4年に統一され、義務教育となった。〔その後明治40年には義務教育の年限が6年に変わったように覚えている。〕といっても全くの義務制ではなかった。
 今の分校の屋敷にお堂があり、それを学校と称して使用した。学校も現在とはちがって春から秋にかけての農繁期には、ほんの数人となり、秋始末が終わると急に大勢となるという有様であった。先生探しも容易でなく親達が連日弁当持参で転々と歩き回って探したものだと聞いている。
 何年頃であろうか、石黒の学校へ通い始めた。今の支所のところのように思われる。その時も教科書は未だなかった。先生の自作で和紙に書かれたものであった。そして生徒の進度によって組み分けされ、その組に合った学習であった。
 また生徒の年令は年長者は20歳のくらいの者もいたように記憶している。当時は欠席などの云々はなく農繁期には子どもが休むので、先生も途方に暮れるような有様であった。

            
 「石黒校百年の歴史」より