明治40年代の子守をしながらの授業の思い出

                   
下石黒  大橋トイ
 私は、3年生の秋から、住み込みで他家に子守に雇われた。それまでは、子守をしないで学校に通っていたが、子守に行ってからは、毎日赤ん坊を背にして学校に通った。 朝、先生が出席をとる頃は、赤ん坊も背中ですやすや眠っているが、二時間目頃になると、そろそろ泣き出す。泣き出せば他の人の迷惑になるから運動場に出て揺すって眠らせた。眠ったからと教室に入って椅子に腰を下ろすと、椅子の横木に赤ん坊のおしりが当たってすぐに目を覚ます。でも、当時は、学校に行っていればよかったので、お陰で落第せずに進級できた。
 たまに、赤ん坊が風邪をひいたときなど、子守をしないで学校に行くことができ「今日は、赤ん坊がいないから一生懸命勉強してこう」と喜んで学校へ行くが、平素勉強していないのだから何もわからない。先生が「ここを読みなさい」と言っても、毎日一生懸命やっている人は、すらすら読むが、私はぜんぜん読めず、自分を悔しく思うことが幾度かあった。
 一番、困ったことは、冬季の寒さだった。火の気はなかった。しかも、運動場の火鉢も一日中、赤々としているのではなく朝だけだった。赤ん坊が背中で小便する。当時は布のおしめ一枚だけだからすぐに背中から足まで伝ってくる。午前に数回やられるのだらたまった者ではない。授業中に運動場に下りて乾かそうと思ってもすでにそのころ,火は消えている。午前中冷たいのを我慢し、昼食上がりをして温かい着物に着替えるとほんとうにうれしかったことを今でも忘れない。

 私は、住み込みということで子守に行ったので、お盆か正月以外は、家に帰ることができなかった。それは当時、米がとれなかったから家の貧しい者は裕福な家の子どもを住み込みで子守をさせてもらうということであった。
 時には、家に帰りたくて布団の中で泣いたこともあった。子守に行って二年目の年であったであろうか、風邪をひいて頭が痛くどうにも我慢ができずやっと暇をもらって家に帰った。途中どうやって歩いたか記憶がないが、家にたどり着くなりばったり倒れてしまった。父親が心配していろいろ介抱してくれた。かなりの熱があったのでだろうが、今のように薬などなかったので、もんだり、冷やしたりして少しは楽になったと思うと父親が背中の肌にぺったりと背負ってくれた。ほんのりと温かい父親の体温で私の熱が下がっていくのを感じた。他家へ子守に行くようになった私が、赤ん坊のように父親の背中で風邪を治してもらったのである。よく今の歳まで生きながらえることができたものだと親に感謝している。

              
「石黒校百年の歩み」より