地蔵峠の秋−石黒村旧庄屋を尋ねて                

 (前文略)9時過ぎ石黒着。田辺さんの案内を得て、石黒の旧庄屋「あたしゃ」さん(当主田辺重順氏)を尋ねることにした。「あたしゃ」さんはバス停のすぐ前にあった。田辺さんが門口から声をかけると、奥から小柄のお婆さんが、腰を曲げながら出てこられた。お婆さんは見知らぬお客の到来に当惑しながらも、問われるままに石黒の昔をポツリ、ポツリと語って聞かせてくださった。
 お婆さんは明治37年生まれで今年78才。名前はお振り(ふり)といって、最後の石黒庄屋重五郎氏の跡取り娘であったという。それだけに、その立ち居振る舞いや言葉づかいがしゃんとしていて、どこか明治の気風を思わすものがあった。
 お振りお婆さんのつれあいは、新田義貞の三男義男の後裔にあたるという板畑の旧家中村家(屋号治兵衛)から入り婿されたという。お振りお婆さんは頼まれるままに私たちを座敷に招じ入れ、その欄間に掲げられた庄屋「あたしゃ」さんに伝わる古記録を見せてくれた。その一枚は明和5年(1768)10月、三島郡脇野町の代官風祭甚三郎のはからいで、女谷村から庄屋を分離し、石黒村組頭であった重五郎が、初代石黒村庄屋になった折りの証文であった。これは、これまでの女谷村の差配をはなれて石黒村の独立を示す画期的な文書である。
 長さ五尺ほどの紙に、女谷村庄屋友左衛門・石黒村組頭重五郎を初めとし、百姓126名の連判。さらに岡野町の林右衛門・門出村幸助・原村の七郎右衛門の署名が並ぶといった物々しいものであった。(資料→庄屋分離願書全文)
 もう一枚は石黒村庄屋重左衛門に対して、安政4年(1857)12月、桑名藩柏崎陣屋代官品川十四郎より、多年の貞実な庄屋勤めに対して、苗字使用を差し許す旨の文書であり、「あたしゃ」さんにとって光栄の文書であった。

 お振りお婆さんは座敷から眺められ庭の大オンコ(イチイ)を指して「この樹は樹齢500年ほどといわれていますが、この樹ほどこの石黒や私の家の移り変わりについ知るものはないでしょう。近く折居から小岩峠越えに延びてくるという国道353線がまたこの樹の下を通って松代にぬけ、津南を通って関東に向かうということです。私の家がまたどんなに変わることやら」とはげしい変革の世を案じながら昔を懐かしむように語られた。(※下写真 大オンコ−現在元高柳役場入り口にある)
 お振りお婆さんの「あたしゃ」さんから眺めると、石黒集落はぐるりと山に囲まれ、まるですり鉢の底にでもいるようであった。
この谷間に石黒集落の小中学校を初め、町役場支所、郵便局、農協支所などもあって、石黒谷の中心で、かつては上石黒下石黒合わせて110戸もあったという。現在50戸。
 寄合から門出への道も、落合から居谷への、嶺から田麦への道も、さらには大野から板畑へ、そして地蔵峠と通う道もみんなこの石黒から出ていき、またここに集まっていたのである。
 お振りお婆さんの庄屋「あたしゃ」家はこうした道の集まる上石黒の三叉路に位置している。おそらく昔は問屋も兼ねていたのであろう。
−前沢潤著 柏崎の史跡今昔から−
(昭和54年−1979頃の著作)