子どもの頃の学用品とこと
                           田辺雄司
 春、3月25日の卒業式が終わると、月末にはもう本屋が来て教科書を売るのでした。内容は、毎年ほとんど変わらないので、兄弟のいる人は兄のものを使ったり、他の家の先輩が使ったものを借りたりしたものでした。
 帳面(ノート)は、各教科に1冊ずつ持っていましたが、画用紙は裏表を使いました。書き方(毛筆習字)の紙はわら紙を使い乾くと何度も使いました。(※当時は新聞を取っている家は極わずかで新聞紙もない時代であった)
 また鉛筆は短くなると、鉛筆の太さに合った篠竹を切って鉛筆にはめて本当に短くなるまで使いました。
 読本(国語)の漢字はもちろん帳面にも練習しましたが、学校の外の運動場とか家の庭の土の上に棒で書いて練習したものでした。
 帳面がなくなると先生に「帳面を売ってください」と言うと「銭は持って来たか、使い終わった帳面をみせなさい」と言われ無駄なくきちんと使っているか点検をうけたものでした。
消しゴムなども持っていない子供が多く、「おい、消しゴムを貸してくれ」などと貸し借りして使ったものでした。
 当時は先生も怖かったが上級生(高等科の生徒)も怖い存在でした。中には性悪の奴もいて、長い鉛筆などを使っていると、教室に勝手に入ってきて「いい、鉛筆を使っているな。もらっていく。先生には言うなよ」などと言って持っていく生徒もいました。それで、私たちは、筆箱の中には短い鉛筆を入れておいて、長い鉛筆は机の中に隠しておいて授業の時にだけ使うようにしたものでした。その他、休みの時間などに教室にきて、嫌がらせをする高等科の生徒もありましたが、誰かが先生に言いつけたのかその後なくなりました。中には、巡査に言いつけたと言う話しもありましたが本当のところは知りません。
 そのころの巡査は戦争中の事で、長いサーベルを下げて長靴をはいて時々家を回ってきました。クツに突いた泥をタネ(家の脇の池)で洗い落としてから雁木に腰掛けてお茶を飲んで帰ったことを憶えています。同じく郵便屋さんも時々雁木にこしを下ろしてラッキョ漬けなどょを食べてお茶を飲んで帰ったものでした。ある時、字の読めない母親が海軍にいる息子からの手紙を郵便屋さんから読んでもらって泣いている姿を見たことが今も忘れられません。
 横道にそれましたが、当時は家に帰ってから勉強するなどと言うことはほとんどなく、家に帰れば親に言いつけられた仕事を済ませてから思う存分遊んだものでした。遊びは下級生も上級生も混じっての遊び方が一般的であり同学年だけで遊んでいることの方が特別の事でした。
 遊びも、いろいろでしたが、沢の流れに小さな水車を作りベルトをかけて他の車を回すなどとても楽しいことでした。今考えるとこうした遊びの中から人間関係を含めて、いろいろ科学的な事を学んだような気がします。
 もちろん、高等科になると先生が試験の予告もしましたが、特別に勉強した憶えもありません。親の方も学校の勉強が良くてもそれだけでご飯が食べていけるわけではない、まじめに働きさえすればお天道様とマンマはついて回るものだという考えの人がほとんどでした。
 子どもの方も卒業したら一生懸命に働いて銭を稼ぐぞという気概をもっていました。その上、高等科に進むと1年に5円ほどかかったので、とくに女子は高等科には進まず紡績工場や女中奉公などに就職する生徒が多かった時代でした。
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