石黒校の思い出 霜田時平 (前文略)私が石黒校に赴任しましたのは、敗戦の前年(昭和19年)国中がありとあらゆる力と物を投げ出し最後の決戦に挑んだ年でした。 若い男は戦場に女は工場にと召集され、我が校の職員もまた応召、最も大切な将来を託す子ども達の指導に事欠く時代でした。教師を探すことが一番の悩みの種でありました。街に出ると大人も子どもも只食べる話以外なかったような時代でした。
しかし、当時石黒村の方々は「どんなことがあっても子ども達を託す先生方に不自由はさせない」と親切にしてくださったことが何より強く頭に残っております。 教育に熱意を持っていられただけに、人手もない物もない時に村民一同が各自の力で各集落ごとに木材を切り出して運搬製材して運動場新築をされたり、グラウンド拡張、飲料水工事等、村民一丸となって取り組んで頂いたことに敬意と感謝を持っております。 屋内運動場の新築では、毎夜、村の方々が集まって月明かりで菅田様(屋号)の音頭で行われたイシバカチ(土台の地固め)の音が今でも耳に残っています。 あの時代の子ども達も大変偉かったと思っております。雨に霰の混じる頃の寒い日も裸足で泥道を滑りながら登下校をし精勤者が多かったこと、冬のストーブ用の薪集め、遠い実習地での作業などみんな一生懸命にやっていたことなど今でも忘れられません。(後文略) (昭和19〜25年学校長 石黒校百周年記念誌より) |