通学の想い出

                              田辺繁雄
 私は、終戦の年(昭和20年)国民学校1年生として、石黒小学校居谷分校に入学した。
 当時は、小学校3年生までは、分校で勉強することになっており、体力もついた4年生からは本校(石黒校)に通学することとなっていた。
 更に、冬の間は4年生から6年生まで、分校に戻って、修学するようになっており、分校であっても、それなりの生徒数、規模になり一定の体裁にはなっていたように思う、当時は、戦争で、疎開されていた方がおられ、そうした生徒も含め、それなりに、分校全体の行事も、本校にならって、実施されていたように記憶している。

 三角林から居谷集落を望む
 

 4年生になると、晴れて、本校(石黒校)に通学となるのだが、その規模の大きさに子供心に驚いたものである。1学年、約50名位はいるわけで、全校生徒では450から500名位はいたのではないかと思う。(詳しいことはわからない)
 先生の数も多く、まさに、大集団の中に入っていったわけであり、緊張して、教室に入ったことを覚えている。
 居谷分校時代は家から歩いて数分なので通学という印象はない。村の中には桜の木もなく、小学校へ入学したという強烈な印象は全く残っていない、勿論、終戦の年なので行事などは省略されていたのかもしれない。(それとも石黒まで行ったのだろうか?)
 従って、居谷での唯一の記憶として、学校から家に帰る途中、久三郎(屋号)と学校との間にある「沢」のところで道幅いっぱいに、大きな、大きな、青大将が横たわっており、その大きさは、「綱引き」に使う、あの綱と同じくらいの太さで、それまでに見たこともない大きさに、びっくりして学校へ引き返した思い出がある。それ以来、そこを通る時はいつも走って通り過ぎたものである。・・・・今日でも蛇は駄目である。
 さて、4年生の4月から石黒本校に通うわけだが、居谷集落(当時は部落と呼んでいた)では、生徒全員が集団で登校する決まりになっていたようで、生徒代表の家で、板(はん)を叩いて、登校時間を知らせていた。これは50p四方で厚みが5p位の板を木槌でたたくのであるが、これは静かな山の中では反響してよく聞こえるのである。今日、思うに、時代劇の中で行われている、連絡手段である。
 何しろ1里(4km)の道を歩いて行くわけだから、何かあっても大変だし、小さい子供もいるわけで、制度として、集団登校をさせていたのだと思う。 
 特に。居谷集落は石黒まで行くのに、2つの峠を越さなくてはならないし、落合集落との間の山は急斜面であり、上り下りがきつく、子供でも、息をハーハーさせながら通学したのである。
 この、山越え、谷越え、山越え、谷越えを繰り返しながら、毎日毎日雨の日、雪の日にかかわらず、小学校4年から、中学3年まで通学したわけで、秋の暮の早い時など、真っ暗な中を、三角林(落合との境にある峠)あたりでは、自分の足音が、誰かについてこられているような怖い思いをして駆け足で家に帰った記憶などがある。
 この我慢強さ、辛抱強さ、忍耐力は大したものだと、今更ながらに褒めてあげたい気持ちである。
 東北の人は、全般に辛抱強いといわれるが、雪の中での暮らし、また、こうした不便な中での生活環境から、育まれていったような気がするが・・・・・

 居谷分校
 

 さらに、道といっても、当時の道は、今でいう「けもの道」で、人が歩いた跡があるからそのままそこを道としていただけである。雨が降れば、この道が、水路になって、道はえぐられ、平らな部分は、まったくなくなってしまう。
 これだけ、変化にとんだ通学であるから、何か楽しいことだとか、うれしいことなどがあってもいいのだが、今でいう「寄り道」、昔は「道草を食う」など出来ず、遠い通学では一刻も早く「腹が減った」「家に帰りたい」という意識ばかりでストレートでの通学だった。
 ましてや、途中に駄菓子屋などないし、食べられそうなものを作っている畑などは無かったように思う。
 ちょうど4月の今頃、まだ残雪がザラメのようになるころだが、三角林から急斜面を片足を前に、反対の足をその後ろにして、ふもとまで、一直線で、滑り降りる、これで結構、気分が爽快になったものである。
 今日なら当然通学バスのお世話になる距離だが、こうした山坂の通学経験が、足を丈夫にし、忍耐力、精神力を、強くしてくれたのかも知れない。

平成20年4月15日                    
                         〔鳩ヶ谷市在住〕