少年倶楽部  
                       大橋英世
   
 小学校の何年生の頃か定かではありませんが、東京の叔父さんから「お盆土産」と称して、生れて初めて見る「少年倶楽部」という雑誌を手にしました。村としては学校のある部落に、二軒の雑貨屋がありましたが、私の部落には「店」と名の付くものは一軒もありませんでしたから美しい色刷りのある、楽しそうな読み物が満載されている本を見たのは初めてでした。有り難く頂戴すると早速その日から欣喜雀躍しながら息もつかずに読みふけったようでした。
 
お盆土産の少年倶楽部

 今でも印象に残っているのは、田河水泡の漫画「のらくろ上等兵」を始めとして、山中峰太郎の軍事小説「敵中横断二百里」や、佐藤紅緑の青春小説「ああ、玉杯に花うけて」とか、南洋一郎の冒険小説「密林の王者」あるいは、佐々木邦の「村の少年団」等々、感激しながら幼い少年の血を沸かせ、肉を躍らせて読みふけり、雑誌の面白さを初めて経験し、心行くまで満喫したのでした。
 その結果として当然、それらの続きが読みたくなり、爾後の購入を恐る恐る父に頼んでみました。
 結果は、予想通りにそっけない「駄目だなあ、叔父さんに頼んでみたら?・・・」と、いともあっさりと断られてしまいました。今にして思えば無理もありません。年一回の鎮守のお祭りでさえ、子どもが貰う小遣いは三銭か五銭が一般的で、十銭も貰えば鬼の首でも取ったように有頂天になっていた時代でしたから、月々五十銭の雑誌では頼むのが無理だったかも知れません。さりとて叔父さんに頼むことはできませんし・・・愚図りながら母にねだってみました。予期に反して母は、父のように一言の下にはねつけないで、私の生涯で忘れる事の出来ないほどの素晴らしい知恵を貸してくれたのでした。
「そんなに欲しいのだったら、自分で小遣いを貯めて買うことにすれば良いだろう」
「そげんことを言ったって、小遣いなんか一銭だってくれたことはないだろう?」
「そんなら、明日からでも、自分で小遣いを働き出す方法を考えたらよいだろうが」
「どげんして」
「家族のために働いて駄賃を貰えば良いだろう!例えば、父ちゃんやばあちゃんの肩を叩いて、百たたいたら一銭貰うとか、野良に出てお母さんの手伝いをしたらいくらとか、仕事と駄賃を相談して決めて置いたら・・・一日に二銭ずつ稼けば月に六十銭だも、五十銭くらいはためられるとだろうが・・・。
 この母の提案には父も賛成し、祖母も協力してくれることになりました。今にして思うと私を働かせるために予め大人たちの間で話合いがあったのでは、と思うくらいスムーズに決まったのでした。それからは毎日のように夕食が終わると、父と祖母の注文通りの仕事をして駄賃を貰い、土曜日には翌日の母の手伝いを予約するようになりました。特に祖母はカラムシという草の皮から糸を紡いで、縮織の仲買人に売っていましたので、注文よりも沢山叩いてあげると、駄賃も割り増しでくれたり、時には祖母の方から「今日は上手に叩いてくれたから褒美だよ」と二銭くれることもありました。
 それまでの私は野良仕事の手伝いを頼まれると「何の、彼の」と理由をつけて逃げ回っていましたが、駄賃を貰うようになってからは積極的に「明日の仕事は?」聞くようになったので、大人たちは「計略大成功」だったろうし、私も待望の雑誌が買える目処がついて満足していました。始めの頃は、駄賃でもらう「一銭、二銭」は雑誌を買う「五十銭」と比べると余りにも小さく感じましたので、果たして一か月分で雑誌が買えるだろうかと不安でしたが「案ずるより産むは易し」で何年間も読み続けることが出来ました。
 読み終わった少年倶楽部は、友達の希望も有って同級生の男子に回覧することにしました。多分、これは父の提案だったと思います。私と同様に活字に飢えていた連中は大喜びでした。回り周って私の手に戻ってきたときにはボロボロになっていたように覚えています。あれから五十年、還暦を過ぎてからの同級会に、「英世君から借りて読んだ少年倶楽部は面白かったなぁ」とか「毎月、楽しみにして待っていたっけな」などと、今になってまでも覚えていて感謝されたのは、彼らにも忘れられない程の楽しみだったからだったろう。
 雑誌もこのくらい沢山の人に喜ばれ、しかも隅から隅まで読んでもらえたら、傷んでも汚されても本望であったろうと思います。また山間へき地で、裕福とは言えない生活環境にありながら、好きな雑誌が読めたことは楽しく、有益なことだったし、またそれ以上に、それを自分の力で購入したこと、いや、自分の働いたお金で買わせるように仕向けて貰ったことは、私の人生経験の上で有意義であったと父母に感謝しております。
 今、静かに回想しますとあの頃、空き缶利用の貯金箱に一銭、二銭と入れると増えるにつれて次第に缶が重くなり、お金のぶつかり合う音まで重くなった楽しい感触は、六十四年の人生の中で一番楽しかった貯金だったように思います。
        (新潟市在住)