戦時中の思い出
                         板畑  中村キヨ

 私は、昭和17年、第二次世界大戦下に入学しました。1年生の時2人の先生から教わりました。先生が病気になって実家に帰られたからでした。また、3年生の時には新しい先生と変わりました。その先生にある日突然召集令状がきて、すぐ出発とのことで、夜、学校へ見送りに行き、村はずれまで送っていったことを覚えています。4年生から本校へ通い始めました。
 避難訓練は毎日のようにありました。授業中に空襲警報という声が廊下から聞こえると、白いものを着ての避難は禁じられていたので風呂敷などをかぶって逃げたことを覚えています。
 また、登下校も空の広く見えるところでは、わざわざ草むらの中をかくれるようにして通学しました。時折、上空を飛行機が通ると胸がぞっとするよう感じがしました。
 それから、そのころ東京や大阪方面から疎開者が大勢やって来ました。私たちの学級でも10人ほどの疎開者で多人数となりました。遠い親戚を頼ってきたのだと思いますが、その家には住むことができず、学校の上のブナ林の中にあった病室〔伝染病隔離病棟〕や水車小屋に住んだ人もいました。
 疎開した人は石黒の方言も分からず、また、シラミを持ってきた人がいたため憎まれたものでした。遊び仲間からはずされ、ぼんやりとひとりで立っている人もいたように思います。今、思うとほんとうにかわいそうでなりません。
 また、当時は、ほとんど午前放課で午後は出征兵士の家庭に勤労奉仕に行ったり、家の手伝いでした。弁当は必ず混ぜご飯でなければ許されませんでした。おかずも、味噌に漬け物だけでした。昼食の最中、先生が教室を巡視され、白米ご飯を食べている者はひどくしかられたことを覚えています。
 また、ほとんどの品物が配給制度で、くじで当たった鉛筆やノートなど決して無駄遣いはできませんでした。
 当時は砂糖の不足はひどくどこの家庭でもサツマイモ飴を作って食べたことを覚えています。また、すべてが供出制度で子ども達も、桑の皮、真藤の皮、オロ〔カラムシ〕など山から採ってきて乾かして供出したものでした。衣類の不足もひどいもので、親の着物をほぐして着物を作ってもらって着たことが思い出されます。
 教科書も紙不足から裏の文字が透けて見えるような粗末なものでしたた。
 中には、一年間に5人もの先生が変わったことを覚えています。こんな時代でしたから身の入った勉強などまったくできない有様でした。〔以下略〕


                        石黒校百年のあゆみより