昔の葬式
                        
 集落で死亡者がでると、親類がすぐに集まって葬式についての相談をしました。
 まず、菩提寺と相談して葬式の日取りや時間を決めなければなりませんでした。その後、村中の親類へは2人、親類でない家へは1人のツカイ〔連絡する人〕を出しました。そのときに「オハナギ」といって、各家の仏壇に供えるために米を小さな茶碗に一杯ずつ配りながら葬式の日取りと、夜に御仏食を食べてもらうのに人数を言いながら村中をまわるのでした。

屈強な人には、他村の遠くの親類までツカイに行ってもらいました。
 その間、村の重立衆の年寄りたちは色紙や銀紙、金紙を使い箸一本で蓮の葉や花を作り、針金で作った枝に葉や花を糊づけしたり、座敷やデイの障子を張り替えたりしました。
 また、土蔵からお膳やお椀を運び出し、置き場がないときには戸板をつかって縄で戸棚をつくって並べて置きました。
 また、亡くなるとすぐに北枕に寝せて枕元に四コウと団子四つを供えてお経を唱えるのでした。
 また、村中からワラ一束と薪二本を集めてヤマ作りをしました。ヤマづくりとは、死人を燃やすための仕掛けのことです。ヤマのつくりは、真ん中に薪を井の字型に積み上げ死人を乗せる台を作ります。そこに、下から上へとワラを上手に組並べ上から死人を入れられるようにしておきます。
 冬場の葬式では、焼き場に積もった数メートルの雪を掘ってまず、地面を出さなければなりませんでした。
 山づくりが終わると、早速、落とし板をお膳代わりに何枚も並べて、お昼を食べることが慣わしでした。
 また、屈強な人が数人でお寺にお坊さんを迎えに行ったり、女衆は勝手方の仕事、他の人は隣の家からランプやロウソク立てや座布団、あるいはお膳、御椀など借りてくるなど、それは忙しいものでした。
 そのうち、お坊様が到着されると、お着きといって握り飯や餅などを少し出して食べてもらいました。
 また、坊さんが来る前の日には、湯かんといって、大きな半切れ〔タライの大きなもの〕を葬式用具入れの小屋から持ってきて、お湯を入れてその中で死人を洗いました。洗う人は「裸人足」と呼び、死人に身近な人2人でしたが、25歳以下の人は将来の出世の妨げになるといわれ、ほとんどは年輩の人がその役を引き受けました。湯かんが終わると死人をしゃがんだ体形で納棺しました。
 葬式が終わると、雁木〔昔の家の間取り図参照〕から男4人で棺箱を担ぎ出します。
 その前に、死人の魂が迷わないように焼き場までの道沿いに「道燈篭」といって、ヨシかカヤの茎にロウソクをともして何本も立てておきました。そして、お棺が通り過ぎるとそれを引き抜いて焼き場に持っていって死体とともに燃やすのでした。

焼き場に着くと、最後のお経を唱え、棺箱を割って死人をヤマの中に寝かせて、その上から沢山のワラをかけて火をつけました。
 冬季の焼き場では吹雪となり、火のついたワラが吹き飛ばされてしまうので数人が一晩中付ききりで火の番をしました。
 ごく風の強いときには、ムシロや古い畳などをハサ竿で止めて風よけをつくりました。
 居谷には、冬場用と夏場用の焼き場がありましたが冬場用は私の家のすぐそばであったので、一晩中、寝室の下部屋の障子窓が明るく気味悪かったことを憶えています。
 冬の葬式は本当に大変でした。村中総出で雁木の雪堀から焼き場とそこまでの道の雪堀をしなければなりません。5メートルもの大雪の冬の葬式は、実に大変なものでありました。
 葬式の夜は御佛食の後、寺から3、4人の坊さんが来ました。お経は皆一緒にするのですが、説教は一人ずつしたので夜遅くまでかかりました。玄関から便所、座敷、デイまでロウソクが灯されて煌々と明るかった光景が今でも目に浮かびます。
 昭和の初めの頃は、香典は村の重立衆は50銭、他の人は10銭〜20銭とロウソク2本を招かれたときには持参しました。
 私は、時々、昔の葬式の覚書帳を仏壇から出して見ますが、その度に昔の葬式は大変であったとしみじみと想っております。

文・田辺雄司
(石黒在住)