疎 開 田 辺 愛 学童疎開が始まったのは昭和18年頃かと思います。この頃から石黒村にも親類を頼って疎開するいわゆる縁故疎開者が多くなりました。 私はそのとき19歳でしたが、疎開して来る親類の小学校1年生の長男を東京まで迎えに行って石黒の自宅につれて帰ったことを憶えています。 当時は、日に日に戦局が厳しくなる頃であり、長女はすでに疎開をしていました。翌年には、おかあさんも杉並の高円寺の家から隣村の鵜川の親類に疎開してこられました。 しかし、その家にも他の縁故疎開者が来たため、1年生の長男が疎開していた我が家に引っ越してこられることになったのです。 小岩峠を越えてくる3人の子どもと母親を私と家人で鵜川村まで迎えに行きました。いっしょに行った家人が誰であったか憶えていませんが、とにかく残雪が多かったことと鵜川の家の造りが立派であったことを憶えています。
その年(昭和20年)は未曾有の豪雪で、春とはいえ未だ残雪に覆われた峠道を慣れない子ども連れで歩いて越えることは本当に大変なことでした。最愛の我が子の待つ石黒の家に着いた時には本当にうれしそうでした。 私の父は、子ども4人と母親が一緒に住めるように土蔵に窓を切り狭いながらも気兼ねなく住めるようにしてやりました。 お母さんは、地主の家に生まれ何の不自由なく育てられた人で、何事にも前向きで気持ちの優しい笑顔の絶えない方でしたが、この戦争は勝てないと断言しておられました。 その年の8月のある日の夜、北の空が真っ赤に染まっている様子を土蔵前で家族で見たことを憶えています。後で聞くと、このとき、長岡が百数十機の爆撃機により1時間40分にわたって爆撃されて千人以上の死者がでたとのことでした。→資料 また、このころは石黒でも食料に困った時代でした。私の祖父は篤農家で表彰されるほどの人で米も沢山とったのですが、自分のとった米も自由にならない時代でした。育ち盛りの子どもたちには足りない分を何とかみんなで分けてやっていました。 そして、8月15日。私はお墓参りに東頸城の親戚の家に行く途中で軍事訓練からの帰りの嶺村の人たちに出会い、日本が負けたことを知りました。その方々も皆、肩をおとしておられましたが私も体の力が抜け落ちていく感じがしました。 しばらくして、お母さんのご主人も中支から帰って来られましたが、お母さんは今までの苦労がたたったせいか数年後に亡くなられました。あれから、六十数年になりますが、二度とあのような戦争はしてはならないと思いつづけております。 (上石黒在住) |