紡績工場で働いた思い出
                            坂爪トイ
 私は、昭和15年に小学校を卒業して京都にあった東洋紡績伏見工場で働くことになりました。当時、岡野町に石塚さんという方が工員募集員をしておられて、すでに石黒村出身の数十人の人達がその工場で働いていました。私の部落の下石黒からも7、8人会社に行っておりましたのでそれほど不安はありませんでした。
 その上、私が京都の工場に出発するときに、ちょうど同じ部落の人が1人お盆で帰省しておられ工場に戻られるということで連れて行ってもらいました。

 当時は、車道も開通しておりませんでしたので朝早く家を出て釜坂峠を越えて岡野町まで歩きバスに乗り安田駅に午後4時頃に着きました。
 安田駅から汽車に乗りましたが夜汽車の窓から遠い人家の灯りを見ていると生まれて初めて遠い土地に行くことが不安に感じられました。
 途中、長野で乗り換えて名古屋駅に着いたのは翌朝7時ごろでした。そこから京都の伏見区の橦木町にあった東洋紡績伏見工場に向かいました。
 工場に到着すると先ず面会室に通されて会社や仕事についての大まかな説明を聞いて、翌日から2日間は見習いをして3日目から1日3交代の仕事をすることになりました。
 仕事の内容は、綿から大まかな糸をとったものにヨリをかけて木管という棒に巻く仕事でした。その後の工程には更にその3本をよって完成した糸に仕上げる仕事がありました。
 仕事は、午前の作業時間は朝5時〜11時、11〜午後5時、午後5時から11時までの6時間ずつの三交代でした。ですから朝からの仕事に出れば11時から自由時間でした。
 とはいえ、工場内には、国語や算数などの読み書きソロバンの学校のような教育施設があり、普通科、本科などのコースがあり、ほとんどの人が指導を受けていました。各コースの教室も分かれていて、その他、女性のたしなみとしての裁縫・生花・茶道、琴などまでありました。図書館や講堂も屋外の運動場もあり、学芸会や運動会も行われました。学芸会に出ることが私は大好きでいつも出演させてもらっていました。
 その他、当時は太平洋戦争前で食糧増産のため農業−畑作実習もありました。寮の人糞を肥料にして野菜などを栽培したことをおぼえています。
 私は、この時に身につけた裁縫がその後の暮らしでとても役だったことを今も有り難く思っています。指導の先生もみな親切で熱心でした。これらの教育を終了すると修了証書をもらいましたが、学校の高等科や中学校の卒業証書のように資格として通用するものではありませんでした。
 普段の生活は寮生活でした。10人部屋で各部屋の1人の部屋長を中心にして仲良く暮らしていました。消灯は9時でしたが、熱心に消灯時刻後も勉強している人もいて普段はほとんどないトラブルになったこともおぼえています。
 娯楽は、工場の寮のすぐ裏が映画館でその他、色々な店もあり便利なところでした。今からみれば田舎でしたが遊郭もあったほどですから繁華街といってもよいでしょう。
 給料は親元に募集員を通して届けられ、私たちには給料明細書も渡されないのが慣例でしたから月給をいくらもらったか分かりませんでした。ただ、給料の中から私たちは小遣いとしてのお金は毎月もらっていましたので不自由はしませんでした。
 食事は広い食堂で食べました。献立は御飯と味噌汁の他は漬け物を入れて3品ほどのおかずでしたが、私たちには御飯が少ないのが悩みの種でした。今でも忘れないことは調理場にいたおじいさんが15歳で小柄な私をかわいがってくれてそっと御飯のお変わりをしてくれたことです。

 家への帰省は3年に1回、お盆に2週間の休暇がありました。私は5年間で1度家に帰っただけでした。
 そして、5年後に工場は名古屋の富田工場と合併したため私たちも名古屋に移りました。その後、人員整理のための勧奨退職が行われ家庭の事情もあって私はそれを機会に会社をやめて石黒に帰りました。
 しかし、太平洋戦争の最中であり、柿崎にあった軍需物資を製造していた理研工場で
ドリルなどを作る仕事をしましたが半年ほどで敗戦となり家に帰りました。
 明治の頃の紡績工場の話を聞くと、とても仕事がきつく待遇もひどいものだったそうですが、私たちが勤めたころは、とても恵まれた環境で仕事ができたことを今でも感謝しております。