おもいで
                           柳橋 孝
 私は週末が待ち遠しい。今日は干支が帰ってくる土曜日だから、半どんの授業が終わるとまっしぐらに帰宅し、庭先で合図を待っている。
 やがて川向うの屋敷の竹林の中に姿をあらわした。白い学帽を振っている。「ああ、干支だ」と、小さく叫んで私も、肩にかけていた手ぬぐいを高くかざし、それに応える。このことは二人だけの秘密で誰にも気づかれていないようだ。
 私の家は村はずれに建ち、柏崎へ出る道筋にあるので、家の下の往来は結構、絶えることのないほどの人通りがある。
昼寝から起きて来た祖父から
 「何しているんだ。まんま喰ったら早く山へ行ってくれ」
 とせかされた。私は高等小学校の一年生だが、学校から帰るとすぐに一里(約4q)もある田圃へ弟を迎えに行く仕事がある。長女に生まれた宿命で、六人の弟の子守をさせられているので、私の背中は(から)になったためしがない。
 あわてて昼めしを食べてから、
 「じゃ、行って来るぜぇ」
 と、祖父に言葉をかけ、うれしさでスキップをしながら山へと向かった。
 干支の家は川をはさんで、二百米ぐらい離れている。この村で初めて柏崎中学に入った村長の息子で、屋敷へはめったに遊びに行けない格式をもっている。
 私の村は黒姫山系の山に囲まれ、まるですり鉢の底のようなところを石黒川が流れ、その両側の傾斜地にはりつくように家が点在している。
 古い記録に残る村の始まりは、元禄以前に、紀州の熊野三山別当湛快の末裔が流れ住んでからである。秘境と言われているこの地の冬は、一丈五尺もの積雪があるが、春ともなれば、まんさく、すみれ、かたくり、雪割草が咲き乱れ、秋の紅葉もまた美しく、極楽浄土をおもわせるこんな山奥に、「おまえ」という屋号の家が、この村の総本家で、そこから「隠居」「西」「東」「新舎」などの分家が出来、元禄三年に作られた五人組制を、この村では「おもだち」と呼ばれ、その分家を支配していた。そうして出来た分家が、昭和の初めごろには五十戸になっていた。村の九割が「田辺」姓をなのっているため、家をよぶときはおたがいに家号を使って呼び合っている。
 干支の家は、「横手」の家号で通り、手入れの行き届いた坪庭に配置よく庭木が植えてある。屋敷の池には錦鯉が泳いでいるし、家の中は広く書院作りの座敷や、中門の寝間が池に面し、隠居所として使われていた。
農業を手広くやっていたが、分家や、小作人に全部やらせるので、家族は手を汚すこともせず、植付けから、取り入れまで出来るのだった。年頃の娘の心の動きを知ってか
 「お前が逆立ちしても『横手』の嫁にはなれないんだからね」
 と、私は母に釘をさされている。
 山奥の村は大自然の恩恵をうけ、一里四方に蜘蛛の巣を張りめぐらしたような道は、山の耕作地にゆくためにつくられているが、逢引きに好都合の場所で、よく恋人と思われる男女を私は目撃している。しかし、干支は、川の向こう側を決まった時間に散歩するので、私はその姿を追って、川をはさんで歩きはじめる。こんな他愛のないくり返しで、自分の意志をうまく表現できないでいた。
 やがて冬休みの季節となり、田んぼを埋めた雪が格好のスキー場をつくってくれるので、子どもたちは手作りのスキーを持ち出して冬を満喫する。
 干支の姿を追って私は、祖父にねだり叔父のおさがりを出してもらい、男子の中に交じって滑りはじめた。さすが干支は町の中学校へ行ったので、この辺とは違った上等のスキー具をはき、さっそうと滑っている。
 そ知らぬりをしてすれちがう。そのとき小さな声で「好き」と言ったようだ。空耳だろうか。私の胸は、どきどきと息苦しいほどに動悸がした。
 上気した私は、うわの空で滑り下りた。とたん、思い切り投げ出され尻もちをつく。
 「うわぁー」
 大声を挙げた私を、干支が目ざとく見つけ、よってきて無言で手をのばして起こしてくれた。二人とも手袋をしていたのに・・・・・。干支の手の温りが伝わってきた。私は手を頬に当てながら干支の後姿を熱く見送っていた。
 干支との逢瀬はこのときが最後だった。柏崎中学から東京物理学校に入学したことを知ったのは、私が、東京に出ていて牛込に下宿し、横寺町の出版社につとめていたころだ。
物理学校とは目と鼻ぐらいの距離なのに・・・・。知らなかったので、一度も会えないまま戦争は烈しさを増し、干支も戦場にかり出されていた。
 干支は一年たらずの軍隊生活で終戦を迎えたが、シベリアに抑留されて、昭和二十年九月四日に病死したということだった。
しかし、新聞報道された名簿にも、それに関した雑誌にも、干支の名前はなかった。ロシアのどこかでひっそりと生きているのだ、と、私は信じたかった。
 これがきっかけで、私は毎年くる八月十五日の終戦記念日には、靖国神社へかかすことなく参拝し、呼べど答えぬ幼なじみの人と、心の中で語りつづけて、いつのまにか五十年がすぎてしまっているのだった。

柳橋孝著「あとには虫の声しげく」から抜粋
〔著者 柳橋孝 旧姓田辺 上石黒出身 川崎市在住〕