昭和10年代の子どもの遊び 田辺雄司 土曜日や先生が会議で鵜川村や上条に出かける時は午前で放課になるので、楽しかったことを憶えている。通学1時間もかかる居谷や板畑の子どもは、土曜日もお弁当を持っていった。 掃除が終わると集落ごとに、掃除の終わってきれいになった屋内運動場の隅に集まって男女に分かれて弁当を食べた。食べ終わると、みんなで帰るのだったが、当時は、男子は途中で戦争ごっこ等をして遊ぶのが楽しみだった。「トウトガラ」と呼ぶ茎の中が空洞の野草の茎をカバンからナイフを出してうまく切るとラッパのような音がでた。高等科の子どもに「お前はラッパ兵だ」などと言われ、得意になって吹いたものだった。他の者は突撃ラッパを合図に銃剣かわりの木の枝を持って突撃を開始するというよな遊びで、通学路の周りの田の畦をはめちゃめゃに踏み荒らして持ち主に怒られることも時々あった。 黒姫山や遠い山々が見える通学路で、大勢で遊んだ時の楽しさは今も忘れられない。 また、何事も戦争が一番の時代で、図画の時間にはほとんどの子どもが描くのは飛行機、戦車、軍艦、鉄砲を持った兵隊、などばかりだった。先生もそれを奨励していたので景色などを描く子どもはほとんどいなかった。 言うまでもなく、当時は日中戦争の最中、日米開戦の直前であったので教育も戦争第一の時代であった。 (居谷在住) |