子どもと柿の木
                       田辺雄司
 子どもの頃(昭和のはじめ)、私の家には柿の木が12、3本ほどありました。祖父から聞いた話では何でも祖父の曾祖父が植えた木もあるとのことで人もうらやむほど柿が沢山採れたものでした。
 9月の祭りが過ぎると親たちは「彼岸柿」といって一番早く食べられる柿を竹竿で採ってくるのでした。しかし、その頃の柿は甘いのですがとてもかたかったことを憶えています。10月に入り学校も稲刈り休みに入る頃になるとほとんどの柿が食べ頃となるので山(田畑)へ行くときにも中飯と一緒に持っていくのでした。また、毎日のように学校へ担いでいくリックのなかに本と弁当箱と柿を5つ6ついれていって、昼休みに食べたり帰り道で食べたりしたものでした。
 中には、あられ混じりの雪のふるころになって漸く食べられるようになる柿もあったように思います。
 渋柿もありましたが昔はいろいろな方法でで美味しく食べたものでした。縄につるして干し柿にしたり、いたんだカラカサの骨などに突き刺して両端に縄を掛けて囲炉裏の上の火棚に沢山下げておいたりしました。火棚の柿は一週間もすると柔らかく甘くなり美味しく食べられました。
 また、渋柿をぬらした新聞紙に一個ずつ包んで、夜寝る前にホド(囲炉裏の火を燃す場所−火床)の近くの温かい灰のなかに埋めておくと翌朝はすっかり渋が抜けてとても甘くなっていました。じかに囲炉裏の火の近くに置いて焼いて食べる食べ方もありました。
 それから、私の祖母は、渋柿の皮をむいて鍋の中で煮て柿団子を作ってくれたものでした。サツマイモの団子よりも甘みがあり美味しかったことを憶えています。
 晩秋になると獣や鳥によく柿の実を食べられたことも忘れません。とくに獣は主に夜の内に食べ地面にタネを沢山落としておくのでした。「ああ、食べられてしまった、昨日のうちにもいでおけば良かった」と他の木を見るとそちらも食べられているというあんばいでした。
 そして、柿といえば、忘れられないのは、小正月の15日に弟と、庭の柿の木責めをしたことです。その日は大人達は神社の雪堀や餅切りなどで忙しいので、その行事はどこの家でも子どもの役割になっていました。私と弟で柿の木のそばに行って、私が「今年も、なるか、ならんか、ならんと切るぞといいながら、ナタで幹を叩くと弟が「なーる、なーる、いっぱいなーる」と言って、さじでアツケェ(小豆粥)を傷ついたところに塗るのでした。
 柿は甘柿渋柿とも色々の種類がありました。形も円いもの、三角、四角っぽいものとあり、味もあっさりした甘み、少ししつこい感じの甘み、水気の多いもの少ないものと様々でした。それは、祖父が村の柿で評判のよい木の枝を春の芽吹き前にもらってきて接ぎ木をしたせいかもしれません。
 接ぎ木は5寸(15pほど)の枝を割って差し、両方の皮がつながるような状態でしっかりと結わえて藁を1把折り曲げて巻いておくのでした。
 やはり、そのおかげで、私の家では特にいろいろな柿を沢山食べることがで来たのだと思います。柿の木の寿命は50〜60年といわれましたが、家のまわりには現在(2008)は2本しかありません。それもそばに生えていた杉が大木になったため日陰になったせいか近年は実のつきもわるく味も昔のように美味しくないように思います。
 それにしても、美味しい柿をたくさん食べた子どもの頃のことを懐かしく思い出すたびに父母、祖父母のことが偲ばれます。

   子どもの暮らし       年中行事