ラジオが村に入った頃のこと
                          田辺雄司
 居谷集落は、上石黒等の集落に20年ちかく遅れ昭和17年に電灯がつきました。〔参照→衣食住 他〕それも数年にわたる電力会社との交渉の末にようやく配電にこぎつけたのでした。その時に電力会社が提示した条件の一つが集落で国民型ラジオを5台いれるということでした。
 こうして、電灯の配電とともに初めて居谷集落にラジオが入ったのでした。しかし、居谷は地形的にも電波条件が悪く、雑音が多くよく聞き取れませんでした。その後、ラジオの性能が向上してきましたが、当時のラジオは、真空管ラジオで真空管が切れると松代のラジオ屋まで行って買ってきて替えたことを憶えています。
 その頃の石黒は、月遅れの正月で2月1日が元旦でしたので、1月1日の「明けましておめでとうございます」というラジオ放送も、ムシロ編みやナワないなどのワラ仕事に精を出して居る私たちは、何か間が抜けたように聞こえ、もちろん正月という実感などわきませんでした。
 また、その年は、日本が太平洋戦争でミッドウェー海戦で大敗をきして敗退を始めた頃で、朝から晩まで大本営発表の声がラジオから流れる毎日でした。
 大本営発表のニュースは、シンガポール陥落からラングーン占領。その後のミッドウェー海戦、ガダルカナル、ニューギニアの大敗まで、あたかも勝利し続けているかのごとき威勢のよいものでした。当時の軍部を中心とした政府と新聞やラジオはそろって国民をだましていたわけです。しかし、戦いの実状はミッドウェー海戦を境に敗退の一途をたどり米英軍は着々と日本本土に迫っていたのでした。
 そして、本土空襲が主な都市から地方の都市へと広がり、山深い石黒でも灯火管制のもとに電灯に黒い布をかけたり、窓をムシロで覆ったりしました。
国民動員実施計画書

 国内では「欲しがりません勝つまでは」のスローガンのもとに節約が奨励されました。新聞やラジオもこれに利用されました。
 また、17年に国民動員実施計画が決定して14歳以上の女子学生の動員まで行われることになり翌年には学徒出陣が始まりました。
 その他、鉄製の生活用品の供出なども行われるなど、だんだん日本軍の敗色が濃くなっている戦況は国民の目にも明らかなことでした。
 「ぜいたくは敵だ」などというスローガンがラジオを通じても放送され、山の中の百姓も自分たちの作った米を自由にならない時代となったのでした。私たち百姓も、米のすべてをいったん供出して一日1人2合7勺の米で我慢するという時代でした。
 昭和17年に、食糧管理法が制定された後は国家総動員法と並んで数々の統制が強権発動によって行われたのでした。