ガダルカナルの戦い
日本軍は、昭和17年ミッドウェー海戦の敗北後も、ポートモレスピーとソロモンの攻撃を諦めず、海軍は単独でガダルカナルに飛行場の建設を開始した。
しかし、その年の8月7日、兵力と物量において圧倒的に勝るアメリカ軍はガダルカナル島に上陸して飛行場を占拠した。
陸軍は8月18日に一木清直支隊をガダルカナル島に上陸させたが20,21日の肉薄戦で一木隊は全滅した。
日本軍は続いて川口清健少将指揮の川口支隊を上陸させたがアメリカ軍の抵抗は激しく多くの犠牲者を出した。日本軍は更に丸山政男中将の指揮する第2師団を上陸させた。しかし、8月24日の第2次ソロモン海戦、10月の南太平洋海戦に続く11月の第3次ソロモン海戦に敗れ(参照 上報道記事写真)、この地域の制空権・制海権は完全にアメリカに握られた。
ガダルカナル島は孤立し、日本の守備隊2800名はジャングルに逃げ込まざるを得なかった。陸軍は船舶増徴による救援を要求したがかなわず、12月31日に大本営はガダルカナル島の放棄を決定した。
補給を絶たれた日本兵は、ジャングルの中で飢えとマラリヤに苦しみながら死んでいった。ガダルカナル島に上陸した総兵力は31,404名。18年の2月1日に夜陰に乗じて撤退できたものは10,652名で(参照 下新聞報道写真)、戦死者数は実に2万人を超えた。戦死者のうちの四分の三は餓死と病死であった。
参考文献 国史大事典
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