長岡空襲
 昭和20年(1945)7月20日、左近地内に1発の爆弾が投下されました。長岡に投下された初めての爆弾でした。
 その11日後、8月1日の午後9時6分、長岡の夜空に警戒警報のサイレンが鳴り響きました。続いて午後10時26分、警戒警報は空襲警報に変わり、直後の10時30分にB29による焼夷弾(しょういだん)爆撃(ばくげき)が始まりました。

 B29は一機また一機とやってきて焼夷弾(しょういだん)を投下しました。すきまなく徹底的に攻撃するじゅうたん爆撃によって、長岡のまちは瞬(またた)く間に炎に包まれていきました。
 猛火の中を、母の名を呼び、子の名を叫んで逃げ惑う人びと。多くの人が炎に飲み込まれていく様子は、地獄絵さながらだったといいます。
 空襲は、8月2日の午前0時10分まで続きました。1時間40分に及ぶ空襲で、市街地の8割が焼け野原となり、1,480人の尊(とうと)い生命が失われました。
 投下されたM69集束(しゅうそく)焼夷弾(しょういだん)は925トン、163,000発余りの焼夷弾子弾(しょういだんしだん)が文字どおり豪雨のように降りそそぎ、長岡を焼き払ったのです。当時の市域で、焼夷弾の落ちなかった町内はないといってよいほどすさまじい空襲でした。
   〔資料 広報・長岡市〕