学徒動員
                         田辺雄司
 昭和18年の春、私は柏崎工業の電気科に入学しましたが、戦争の真っ只中で午前中4時間は机に向かって勉強しましたが、午後は軍事教練でした。
 翌年、2年生の春から昭和20年の終戦まで、柏崎の理研で、その後は愛知県のトヨタ自動車会社に学徒動員として引っ張られました。そこでは、空腹とシラミに悩まされ、勉強どころではありませんでした。
 国は、昭和19年に学徒勤労令を出し、中等学校以上のほぼ全員を軍需工場などに動員・配置したのでした。

 終戦近くになると、日本近海までアメリカの航空母艦が何十機もの艦載機を飛ばし、波状攻撃をおこないました。私達の働いていた工場も攻撃を受け亡くなった者や怪我をした人も多くいました。女工員なども毎日のように病院に搬送されていました。
 工場が攻撃されると屋根のスレートを破り機械に弾丸が当たると「カーン、カーン」と音がしたものです。そんなときには、私達は機械の陰に隠れてじっとしていました。
 そんなわけで電気の勉強もなかなか出来なかったのですが、終戦後に現在の東京電力に就職すると寮生活でしたが、そこで勉強してようやく21才の時に電気技術者の国家試験に受かりました。
(石黒在住)