忘れ得ぬこと
                          柳 橋  孝
 昭和8年頃勃発した満州事変や日支事変が、村の在郷軍人に赤紙という招集令状で、数人の方が戦場へと駆り出され、再び村に戻ることなく散った兵士四人もいた。
 当時、小学生だった私の記憶の中で、おぼろげながら生きつづけているのは、大野村のごんぺいの誠一氏を送った日のことである。
現在の嶺坂(石黒側)
 あの日、石黒校の校庭は生徒二百人と村の人々で埋めつくされていた。
 軍服姿に奉公袋をさげ、中央の台の上にのり、校長、村長、駐在さんの祝詞をうけ、勇ましく出て征かれた。私たちも日の丸の小旗を手に「天に代わりて不義を討つ」の歌を合唱しながら、村道からみね坂を登って見送った。
 刈羽郡と東頸城郡の境界の峯村の頂上で私たちの行列は終わる。村人の送辞を受けた後、誠一氏の答辞があり私たちは別れの悲しみを胸に抱きながら「敵は幾万ありとても」を歌うのである。
 そして、万歳三唱で分かれたのだった。
 親しい方たちは、バスのくる田麦まで同道されるのに、妊娠中で大きなお腹を抱えた妻は、ここに残された。
 人々に囲まれ、坂を下っていく夫の姿が見えなくなったそのとき、くずれるように地べたに坐り込み、声をあげて泣かれた妻の悲しみが私の心にずうとやきついている。
嶺坂(嶺−藤尾−田麦)

 あの日から間もなく、その妻は亡くなられ、誠一氏も、昭和十三年二月戦死されたのである。
 子どもながら、あの夫婦の切ない別れが、今だに忘れられないでいるのは、なぜなのか。
 私は昭和十三年以降は村を出て上京したので、それ以後の兵士は見送っていない。
         〔旧姓田辺 上石黒出身 川崎市在住