軍歌の思い出
                           田辺雄司
 私たちの小学校時代は、唱歌からはじまり、ほとんどと言って良いほど軍国調の歌でした。
 毎日のように、学校ではオルガンの前で軍歌を歌わされました。それにしても、今にして思うと、当時の子どもの心に軍歌というものが与えた影響に驚くばかりです。

見よ東海の空あけて 旭日高く輝けば
天地の正気溌剌と 希望は踊る大八洲
おお晴朗の朝雲に そびゆる富士の姿こそ
金甌無欠揺るぎなき わが日本の誇りなれ

起て一系の大君を 光と永久に戴きて
臣民われら皆共に 御稜威に副わん大使命
往け八紘を宇となし 四海の人を導きて
正しき平和うち建てん 理想は花と咲き薫る

いま幾度かわが上に 試練の嵐哮るとも
断固と守れその正義 進まん道は一つのみ
ああ悠遠の神代より 轟く歩調うけつぎて
大行進の行く彼方 皇国つねに栄えあれ
(愛国行進曲 森川幸男作詞   瀬戸口藤吉作曲)


朝だ夜明けだ潮の息吹 うんと吸い込むあかがね色の
胸に若さの漲る誇り 海の男の艦隊勤務
月月火水木金金

赤い太陽に流れる汗を 拭いてにっこり大砲手入れ
太平洋の波波波に 海の男だ艦隊勤務
月月火水木金金

度胸ひとつに火のような練磨 旗はなるなるラッパは響く
いくぞ日の丸日本の船だ 海の男だ艦隊勤務
月月火水木金金

どんとぶつかる怒涛の唄に ゆれる釣床今宵の夢は
明日の戦のこの腕試し 海の男だ艦隊勤務
月月火水木金金
( 月月火水木金金 高橋俊策作詞  江口夜詩作曲)

 70年近い月日のたった今日でも、この歌を心の中で歌うと何か感動に似たものもを感じることに驚きます。当時は嫌々ながら歌わせられていたのでしたが、体操の時間などはこの歌にあわせて行進したりしていましたからすぐに憶えたものでした。
 軍歌を毎日歌ったり聴いたりして、子ども心にも、兵隊に行けば名誉の戦死をするのだと覚悟していたのですから、軍歌が与えた影響の大きさに驚くばかりです。
 昭和12年にシナ事変が勃発して、支那(現在の中国)との戦争が始まりました。新聞やラジオは日本軍が支那の都市を次々と占領して進軍している様子を伝え、喜びにわき提灯行列や日の丸行列まで行われました。
 学校でも図画の時間には大砲や戦車、飛行機などの絵ばかり、掛け図や本を見て描いたものでした。綴り方(作文)には大人から聞いている戦況のことや大きくなったら兵隊さんになることなどを書きました。

肩を並べて兄さんと
今日も学校へ行けるのは
兵隊さんのお陰です
お国のために
お国のために戦った
兵隊さんのお陰です

夕べ楽しい御飯どき
家内そろって語るのも
兵隊さんのお陰です
お国のために
お国のために傷ついた
兵隊さんのお陰です

淋しいけれど母さまと
今日もまどかに眠るのも
兵隊さんのお陰です
お国のために
お国のために戦死した
兵隊さんのお陰です
(作詞・橋本善三郎、作曲・佐々木すぐる)

何事につけても当時の先生は、すぐに兵隊さんの事を思いなさい、とか、兵隊さんがいるからこそお前たちは毎日学校へ来られるのだと言ったものでした。

 また、村では出征していく兵隊を神社で毎日のように送りました。中には村の人たちの前で落ち着いて挨拶の出来ない若い出征兵士もいました。家族と別れて生きては戻れない覚悟で戦地にいくのですから今考えれば当然の事です。その人は戦地に赴く途中、輸送船が撃沈されて帰らぬ人となりました。学校で行われた葬儀ではみんなで泣いていたことを憶えています。
 また、そのような家には学校としても生徒がお手伝いに行ったこともありました。村の人たちも子どもが学校に上がるまではお米をあげるなどして援助したものでした。その家の玄関の柱には「護国の家」という張り紙がしてあったことを憶えています。

今後、戦争は決してあってはならないことですが、当時の軍歌には、今日の人間には足りない気持ちというか精神というかがあるようにも思います。