ハシカの思い出
                         田辺雄司
 小学校4年の頃だったと思います。朝起きてみると頭が重く、食欲もなく、手足に赤い発疹が少しでていました。
 その数日前までは、田かきの鼻っとり(馬の誘導)や田植えの手伝いをやっていましたが、その仕事もようやく終わった頃のことでした。
ハシカの神様を送る赤飯を置くために作られたサンダワラ
 父は、私の額を自分の胸に押しつけてみて、「こりゃハシカだ。学校は休んで温かくして寝ていろ」と言いました。そして、母に「もっと着物を着せろ」と言い残して背負いかごを背負って熱冷ましのための残雪をとりに出かけて行きました。父は、山の谷の沢辺に出かけて残雪を取って背負いかごの中に入れて背負ってくるのでした。途中で雪がとけて水滴が垂れて背中や尻のあたりがぬれたらしく帰るとすぐに着替えをしていました。
 母は、父が取ってきた雪を水枕のなかに入れて、タオルをかぶせて「ほら、じょんのびだろう」と言いながら頭のしたに入れてくれました。
 そして、母は留守番の祖母におかゆを作って食べさせるように頼んでサツマイモの植え付けに肥やし桶を背負って父と山(畑)に出かけたようでした。
 私は、学校は休まれるし、白いかゆも食べられる。そのうえ祖父は卵をぬれた新聞紙に包んで囲炉裏のホド(火の燃えるところ)で焼いて「ほら、野郎、卵でも食って元気をだせ」と自分で皮をむいて塩をつけてくれるのでした。
 また、いつもは怖い祖母も、どこにしまっておいたのか少し青カビの生えた粉菓子を持ってきて「ほら、菓子だぞ」と言ってカビをこすり落としてくれるのでした。
 このように、家中が自分のことを心配してくれるのがうれしくて、ずっとハシカでいたいような気さえしたものでした。
 みんなに大事にしてもらったお陰でハシカは3、4日過ぎると発疹も消えて熱も下がったので、水枕もとって、雁木に逆さにぶらさげて干しました。
 母は、ハシカの神様を送るのだと、赤飯を炊いて、俵につけるふた(サンダワラ)のようなものを作って赤飯をのせて家の近く道端の田んぼの畔に置いておくのでした。
 ハシカが治ると、また、学校へ行ったり、友達と外で遊んだりしましたが子供ながらに、健康でいるのが一番いいと実感したものでした。