ラジオの思い出
                            田辺雄司
 私達の集落では昭和17年の春に電灯が点灯したので、それまで、ラジオなど身近にありませんでした。
 今、思い出すことは紀元2600年の式典が東京で行われたとき、学校の屋外運動場に両端に丈夫な孟宗竹を2本立ててアンテナ用の細い針金のようなものをピンと張ってラジオ放送を受信されたことでした。教頭先生が自宅からラジオを持ってきて全校300人ほどに聞かせたいと準備をされたのでした。
 当時は隣の落合集落の旦那衆の家2、3軒にラジオが入っていたので学校の帰りにラジオのある家のガンギで
 「ここんしょ、ラジオ聴かしてください」と頼むと
 「おおう、居谷の子供か、カンギでは良く聞こえないだろうから座敷に入れ」
 と言ってくれて座敷に上がって聞かせてもらったものでした。
  しかし、静かに耳を澄まして聴いていてもピーピー、ガーガーという雑音が多くてほとんど聞き取れないほどでした。たまに声が聞こえても子どもにはその意味が分かりませんでした。でも、そのおかげでラジオというものはこういうものだということは知っていました。

 そして、いよいよ紀元2600年の式典の日、先生方は正装し、子ども達も改まった服装で運動場に1年生から高等科2年までが行儀よく並んでいました。しかし、やっぱりラジオはほとんど聴き取れません。教頭先生が必死に調節していましたがだめでした。
 それで、時々教頭先生が「今、天皇陛下がお話されているからみんな頭を下げなさい」とか、「終わったから頭を上げてよし」など指示されました。
 それから、これから万歳三唱があるから皆も一緒にするようにという指示で大きな声で万歳をしたことを憶えています。最後に紀元2600年の歌を合唱して終わりました。

 その後、隣村の莇平集落と小貫集落に呼びかけて配電の運動を始めて、ようやく昭和17年に配電が実現しました。
 そのときの電力会社の条件が3カ村で国民型ラジオを10台取り付けるということでしたが、そのうちの5台を居谷集落が引き受けたのことでした。

 こうした歴史を経て石黒でラジオが普及し、娯楽となるのは昭和23、4年ごろだったと思います。