蓄音機と浪花節 田辺雄司 それは、昭和13年の夏のことでした。小学4年生の私は蚕の時期になると、祖父の桑の葉取りを手伝ったものでした。蚕が成長して繭ができあがる頃になると、毎年、隣村の松代村で観音祭りがにぎやかに行われ、そこへ祖父は繭を売りに行くのでした。 暑い頃で、朝早く、祖父は大きなカゴに繭を入れて背負い、その時代では珍しかった地下足袋を履いて出かけました。私たち子どもは、その日の祖父が帰りに桃を買ってきてくれるのが何よりの楽しみでした。 その日も、学校が終わると走って家にり祖父の帰りを今か今かと待っていました。夕方になると祖父は見知らぬ人と一緒に帰ってきました。その人は大きな箱を背負ってきました。雁木に腰掛けて「暑い、暑い、水をいっぱいくれや」と言うので水を汲んできてやると美味しそうに飲みました。 祖父はカゴの中から桃を出して弟妹と私に一つずつくれると、「今日はなあ、蓄音機というものを買ってきたぞ」と言いました。木の箱を背負ってきた人は蓄音機を売る人だったのです。 その人が木の入れ物を開けると中から黒い箱が出て来ました。その箱のフタを上げると、中には見たこともない丸い台があり、横には金属で自在に曲がる不思議な管がついていました。その人は、紙袋に入った黒い円盤(レコード)を取り出すと丸い台の上に置いて、箱の横の穴にハンドルを差しこんでクルクル回しました。そして、「こうしてネジを巻くんだ、固くなったら止めるのだ」と言い、それから自在に曲がる管の先の頭に針を取り付けて、そっと回転している黒い円盤に置くと、とたんに歌が聞こえてきました。祖母や母など家族みんながびっくりして声をあげました。私は、箱の中に唄っている女の人がいるような気がして不思議に思いました。 その人は、蓄音機の使い方について色々教えると、祭りの店があるからと、祖父が代金をもらうと松代に帰っていきました。 その後は、みんなが松代に行くたびに蓄音機の盤を買ってきて鳴らしました。当時は居谷にはまだ電灯はつかずラジオもなかったので、村の人たちも蓄音機を聞きにやってきたものでした。
多分、蓄音機を買った翌年のことでしたが祖父が3枚つづきの浪花節の盤を買って来ました。題目は「この母を見よ」という戦争の物語でした。私たち子どもには浪花節などあまり面白くもありませんでしたが、家の者は涙を浮かべながら聞いているのでした。 私も何度も聞かされているうちに、その物語は、盲目の主人公である母が、息子が戦争で目を負傷して病院に戻っているというので、病院に息子に会いに行くという話でした。どうしても息子に会いたい、会いたいが目が見えない上に8銭の汽車賃もない。それでもなんとか病院に行くことができて息子会ったのですがお互いに目が見えないので指で顔を触りあって親子の対面をするという内容であったことを憶えています。 現在、テレビで二葉百合子さんの「岩壁の母」を聞くたびに、その浪花節のことを思い出します。たぶん、そのレコードの浪花節の女浪曲師は天中軒雲月という名前であったと思います。 今でも、蓄音機を囲んでいる写真を見ると当時のことが懐かしく思い出されます。 |