「瞽女唄への郷愁」から
〔前文略〕
 昭和のはじめまで、稲の刈り入れが一段落し、村の人たちが、ほっと一息つく頃になると幾組かの瞽女がやってきた。
 刈羽郡の屋根とまで言われている谷あいの村に三味線の音がこだますると、私は誘われるように弟を背負って後をついて歩くほど瞽女に惹かれていた。
 目のかすかに見える人の背荷物に指を当て鎖の連なって歩いて行く女たちのいでたちが子供心に美しく映った。朽葉色と海老色の滝じまの袷を裾高に着てその下に紅色の蹴出し〔湯文字〕を覗かせ、久留米絣の前掛けをきっちり締めている。四肢にあい色の手甲、脚絆を巻き、頬かむりの手拭いに独特の饅頭笠を載せ、その笠の緒の赤さが印象的だった。門付けのときは前の人が三味線を弾くと、あとの二人は見えない目を空に向け、声を張り上げて請われる唄をうたってくれる。私の家は村はずれにあるので一番最後である。祖母はお茶を用意し、一合ますに山盛りに米を傍らに。祖母はいつも決まって「葛の葉の子別れ」を所望するのである。すると、瞽女たちにより哀しい口説き節が語られる。

夫に別れ、子に別れ
元の信太に帰らんと
心のうちに思いども・・・・・
今生の名残りに今一度
童子に乳房を含ませて
これより信太に帰らんと
保名の寝つきをうかがうて
さしあし、ぬきあし、忍びあし
吾が子の寝間に急がるる
ここまで瞽女が唄うと祖母は手拭を目に当て、嗚咽する。
「ばばさ、あんときどうして泣きゃるがん」と聞いたことがあった。祖母は「先祖のばばさがない、秋の夜なべに粉挽きを一緒にやったとき、身の上ばなしをなしゃってない」と、いきさつを話してくれた。
 「先祖は分家の身分なのに隣村の旦那さまの娘を嫁にした。本来なら分家にくるような人でなかったが、出戻りのためうちのような処に嫁にこらっしゃってな。ばばさはい、根性の人で嫁姑のいさかいなんかなかった。ここにくる前、板山の旦那さまのところに嫁に行かしゃったが、姑に気に入られず、事あるごといじめられたと。初児が女の児だったことで、いやがらせがひどくなったてや。
 或る日一石桶で、ぶつぶつどぶろくが湧き出したと。下男に聞くと、次の祝言〔ばばさまの代わりの嫁〕のために用意した酒だったてや。あまりの口惜しさで塩一掴みぶち込んだら、上等の酒になったてや。もうこれまでと子供を背負い、大平にいる姉のところに逃げたてや。姉は子供づれで出てきた妹に向かって、「今日一日、俺の言いつける仕事を子供を負ぶってこなして見れ。無理だと思ったら、おやじのところに置いてこい」と言ってこくな仕事を次から次へと言いつけたてや。ばばさは、限度だとさとり、夜中におやじ〔夫〕の寝間に眠っている児をそっと置いてきなさつたてや。村境の峠にくると、泣き声が耳につき、また引き返して寝間に行って見たらすやすやねっていたてや。その話を大姑にきかされ二人で手を取り合って泣いてもんや。だからこのくだりがすきでなぁ!」と。むかしの嫁入りは家どうしの結びつきで本人の意思など無視されたものだった。
 農家ではお金の代わりに女の腰にくくりつけてある口広の袋の中にお米が流し込まれる。なんの娯楽もない山奥の村人たちは、その夜、瞽女宿で聴ける段ものや、口説きが楽しみで、暗い夜道を提灯さげて、三々五々集まってきて瞽女宿が一杯になると瞽女の唄が夜更けまで披露される。瞽女宿は村の旧家が定宿だった。集まってくる村人を収容できる大広間が必要だったからであろう。旅装を解き、風呂を浴びて。衣替えをし、うす化粧をした瞽女の顔は昼間と違った芸人としての威厳が感じられた。
 よく、うけた口説きは「葛の葉の子別れ」だった。哀しく歌え上げられるこの唄は戦時中、夫や子を戦地に送った女たちの共感をそそったらしい。そのほか、石童丸、山椒大夫、先代萩、曽我兄弟、佐倉宗五郎の物語は幼いときから耳学問で知った。手近に読む本がなくとも、毎年やってくる文化の運び人の瞽女が繰り返し歌うので自然と頭の中に刻み込まれた。〔後文略〕

柳橋孝著 「瞽女唄への郷愁」から抜粋
〔著者 柳橋孝 旧姓田辺 上石黒出身 川崎市在住〕