大政翼賛会 日中戦争から太平洋戦争期の最大の官製国民運動団体。 昭和12(1937)年、日中戦争勃発から国民の画一的組織化、いわゆる国民総動員の実現が支配層にとって緊急の課題となった。 また、日中戦争の長期化に伴い昭和14年後半から経済危機が深刻化し、労農争議が増加傾向を見せる中で政府は早期の日中戦争終結を目指した政策を模索した。 そんな中、昭和15年3月に成立した近衛内閣は、10月に国民総動員の国防国家体制としての大政翼賛会を結成した。 大政翼賛会の総裁は、歴代の首相(近衛・東条・小磯・鈴木)が兼任し、組織は、総裁の下に中央本部→道府県支部→郡支部→市区町村支部下の町内会、部落会にまで達する機構であった。また、翼賛会の運営は、多数決原理を廃止し「衆議は尽くすが最終決定は総裁が下す」という結局は、国民は指導者に従うという原理に基づくものであった。 しかしその後、翼賛会トップの主導権争いが表面化し16年には翼賛会は公事結社と認定されて政治活動が禁止されるに至った。そしてそれまで主導権を握っていた近衛グループは同年4月退陣して、代わって内務官僚と警察が主導権を握る「上意下達」の行政補助機関となり、さらに9月には翼賛会議員同盟が結成された。 ついで、東条内閣は17年1月大政翼賛運動の実戦部隊として大日本翼賛壮年団を結成して4月の選挙で勝利して「翼賛議会体制」を確立した。 そして、6月には、大日本産業報国会、農業報国連盟、大日本婦人会、大日本青少年団、商業報国会、日本開運報国会の官製の6団体を傘下に統合した。さらに8月には部落会・町内会の会長(約23万人)、隣組長(133万人)を翼賛会の世話役、世話人と位置づけ、前者の官製6団体と後者の地方行政組織を2本柱とした天皇制ファッシズム体制を確立したのであった。 その後、翼賛会は政府と一体となって各種の国策協力運動を展開したが、太平洋戦争末期に本土決戦が近づくにつれ昭和20年6月23日に解散して国民義勇隊として発展的解消をとげるに至った。 参考文献 国史大辞典 |