足谷(あしだに)の一軒家
 国道353号線が居谷を通り、冬季も無雪道路となり車が通る現在では想像もつかないことでありますが、昔は供出米を出荷するにも人や馬の背でもっぱら運んだものでした
 当時、居谷からの供出米の出荷は、米俵を背負って集落の上の急な坂道を上り隣村の小貫(こつなぎ)との村境の尾根に出て、そこから延々と続く山道を歩くのでした。
 頂上からの道は片方は比較的なだらかな灌木に覆われたボイ山(焚き木用低木を切る山)で、春はヤマツツジが咲き、秋にはリンドウの花が咲き、尾根道からは越後山脈が遠く眺められ、北方に目を転じると黒姫山が雄大な姿を見せ、申し分のないよい景色でありました。この通りの一番高いところを昔から「た高地」と呼んでよりました。
 
     (写真は上石黒から嶺経由の道路)
 そこの平らな道をしばらく歩きますと今度は両側がボイ林になりますが、割合に道幅は広く歩きやすい道でした。
 やがてこの道を少し下って谷間の平地に出ますと足谷(あしだに)の一軒家があるのでした。そこの家の人は田や畑をやって生活しておりました。一軒屋の里とはいってもきれいな水の流れる川には丈夫な木橋が架かっていました。
 そこから、また、急な坂道を上るのですがこの坂を「七曲り」と呼んでいました。ようやく頂上に着きますと道は二本に分かれていて一方は竹平へ、もう一方は大島へ行く道でした。供出米は大島村に運ぶので、その道を暫く下ると車道に出てようやく供出米の出荷場に着くのでした。
 居谷から足谷経由大島村への昔の道路略図
 
 この道を牛馬に米2俵をつけて大島村まで運ぶことは、容易なことではありませんでした。慣れない人は2〜3人連れで行くのでしたが慣れた人は一人で行くのでした。
 居谷から大島村へのこの道は坂道が多く一日に1往復が普通で2往復するには余ほど朝早く家を出なければなりませんでした。
 また、この道は供出米の運搬ばかりではなく、現在の上越市高田に出るときにも通ったのでした。
 また、これは、50年ほど前のことですが、私は密造酒を大島村まで夜にこの道を2、3人で運搬したことが何度かありました。その時には足谷の一軒家に濁酒を一升ほど持参して休ませてもらったことを懐かしく思い出します。
 当時は、石黒村は人口も多くにぎやかでしたが現在は昔の7ケ村の内3軒しかないところが3集落もあります。道路や田はそのころには想像もつかないほど立派に整備されましたが、過疎による高齢化が進み年々人が減っていくばかりで淋しい限りです。
 (文・地図 田辺雄二 居谷在住 2012.7)