大林の掘割工事についての思い出
                           大橋松寿
 子どもの頃、自動車の通れない雨が降れば沢になるような道を通って毎日通学しました。
 昭和30年代前半、自動車の走れる道を作るため道路工事も始まりましたが、当初は手作業で「くわ」、「つるはし」、「もっこ」、「トロッコ」で道路工事をやっている村人の姿を見ながら通学したものです。(「石黒の昔の暮らし−民具」この機具の写真と説明があり感激しております。)
 落合までの通学路で思い出深い場所が大林の掘割工事現場です。大林の掘割は石黒から落合までの道路工事で村人の労力と時間を一番要した場所と聞いています。
 「石黒の昔の暮らし」に出ている「道普請」という言葉を見ると、子どもの頃、父親が「今日は道普請だ」と言って出かけた場面が今でも目に見えるようです。
現在の大林の堀割

 学校の帰り道に大林を通ると、道普請に出ていた7〜8人が腰を下ろし休んでいました。話している人、煙管でたばこを吸っている人、煙管に「きざみ」入れている人、時々笑い声も聞こえたり、目が合うと、「帰りかえ」と声をかけてくれる人もいたことを憶えています。
 そのほか掘割工事の思い出は沢山あります。掘割工事で矢じりが土中から出てきて、それをもらって学校に持っていき、先生に渡したことを覚えています。
 矢じりはいろんな形があり、大昔に狩猟で石斧や包丁代わりに使用したと教科書で習ったことを思い出し、大林が古代の狩猟場だったとすると私たちは、その原始人の血を受け継いでいるのかなと想像し不思議な気持ちになったものでした。
 その数年後には、大林の掘割作業も機械が入り小林組のブルトーザで幅広く深く掘り進むようになり工事も急ピッチに進みました。大林の工事が終わるとその先の落合までの工事もブルトーザで行われ、数年後には車が通れるようになりました。
 しかし、それまでの道普請は言葉では語り尽くせない苦労があったものと想像します。道普請の合間に農作業もあり大変な苦労であったと思います。道普請は何年ぐらい要したのか、そのころの写真が残っているのでしょうか、また、経験された方に当時の苦労話を是非お聞きしたいものです。
 こうして石黒の道も、人の歩く道から、馬・牛の通れる道、荷車・リヤカーの通れる道、自動車の走れる道へ変わり、運ぶ荷物の内容や自動車などの通行量によって新しい道へと変化してきたのでした。近い将来大林付近の下に国道353号線のトンネルが出来て落合に通じる計画があり調査工事が行われていると聞いています。
 今から57〜58年前、小学2年生の時に担任の深澤先生から、何十年先かわかりませんが小岩峠の下をトンネルが出来、柏崎まで行けるようになると聞いたことを思い出します。それが平成4年に実現したのでした。出来ることなら、大林付近の下のトンネルの完成も自分の目で見てみたいものと思っています。
 しかし、トンネルができますと現在の上石黒から落合までの今の大林の道はいつか道としての役目を終え、長年にわたって村人が汗を流して作ったものが使用されなくなっていくと思うと寂しい気もします。
                   (大橋松寿−落合出身)