柏崎〜湯沢産業道路
                          田 辺 雄 司
 私たちの耳に353号線の話が伝わってきたのは、昭和20年頃のことでした。なんでも「柏崎〜湯沢産業道路」という呼び名でした。初めは名目ばかり聞こえて、その道路は、一体どこを通るのかということが話題となりました。
 そのうちに、路線は石黒〜落合〜居谷〜松代という風評が伝わってくると、集落では村のどの辺りを通るのかがもっぱらの話題となりました。
 
            春の居谷集落 

 それから数年後に、石黒村と高柳村との合併の話が持ち上がり、合併すれば高柳村はこの道路には賛成してくれないだろうから、合併前に、せめて集落の意向と法線を決めておく必要があるということになりました。
 そこで、合併前の秋、木の葉がすっかり落ちた頃に、村長と課長の2人が居谷集落に来て法線の測量をすることになりました。集落からは重立衆と若者10人ほどが出て、竹竿の先に、赤、白、黒の布切れをつけて、部落の奥の方から測量を始めました。
 若者が目印の布を付けた竹竿を持ってボイ山の中にもぐりこみ、竹竿を立てるとチョウナ坂側から重立衆が、「白はもう少し上」「赤は下」など大声で指図するのでした。何しろ低木がびっしりと生えた斜面のことですから移動も大変でした。3、4日で出来上がった法線は、ほとんど現在の道路の通りであったと思います。
 その後、役場で手配した測量士が入ってきたので、今度は正式の法線を測量してもらうために現場のボイ切りに取り掛かりました。降雪期前であったので忙しない仕事となりました。村人たちも雪降り前の秋仕事があるので大変でした。ボイ切が終わると今度は測量士の手伝いで毎日3人ほど村人が交代で出ました。
 日も一年で最も短い頃であり仕事は、なかなかはかどりません。若者の出稼ぎの時期も迫っているので村長や課長が来て早く終えるようにと指示するのですがそれほど簡単にできる仕事ではありませんでした。
 どうにかこうにか、集落のチョウナ坂〔板谷〜落合の間〕の境の山まで測量が終わりました。
 慰労会で一杯飲んだときに、測量士はこのような傾斜の原野の測量など丁寧にやっていたら12月中には終わるわけはない、などと話しておりました。
 いずれにせよ、道路の法線もきまり一安心したのですが、これからがどんなに大変であるかは、その時はまだ村の誰一人想像もしていませんでした。

 新しい年をむかえ、新年の話題はやはり雪消えをまって工事に取り掛かる新道のことでした。区長交代の3月を迎え、区長宅に重立衆が集まった時にも、重立衆の話で道路の話題で盛り上がりました。
 4月に入り、雪も消えてそろそろ田打ちが始まった頃でした。村長と課長がやって来て、これからの道路開削工事を、村人自身でやるか、業者を頼んでやるか決めて置くようにと区長に話して帰ったとのことでした。業者を頼む場合は莫大なお金がかかりますがそれは、農協から借り入れるというのでした。
 田打ちが盛んになろうという頃に、村常会が開かれてこの問題について話し合いが行われました。ところが、わずか18軒の集落でしたが意見が真っ二つに割れてしまいました。
 つまり、村人の手でやるという意見と、農協から集落で資金を借り入れて業者に依頼すると意見に分かれたのです。自分たちの手で行うという意見の人たちの考えには小集落で借金の返済は大変であるということと、合併すれば町や県の協力も得られるであろうという観測もありました。
 いく晩も会議を行いましたが残念ながら意見の調整一致は見られず多数決による投票となりました。結果は借入金により業者を頼むという人々が僅か1票差で勝利しました。
 反対のグループの人の中には、莫大な借金をして孫子の代まで返済しなければならないと涙ながらに語り、心配する人もいました。
 また、今までまとまりの良かった村が、このような問題で、かつてない対立を招いた事が、後々しこりとして残ることを心配する人もいました。
 区長は村長を訪ねて、常会の結果を受けて農協から借り入れた資金で行うことに決まったことを告げました。そして、区長および重立の氏名に捺印しました。借入金は192万円という当時としては大金でありました。〔現在の2千万円位か〕
 それから、春の田仕事が終わった頃に部落の常会が開かれ、村長、課長、農協支所長などが出席されました。
 村長の話では、工事は現在大野地区で仕事をしている柏崎のN組が現在の仕事を終え次第、居谷に来て工事を始めるからそのつもりでいるようにとのことでした。一方、農協は192万円の貸付金に対する利子は一年据え置きで翌年から利子元金を少しずつ返却するようにといってきました。

田植えが終わる頃に大野地区の工事が終わり、N組の人がやってきて早速、村中を集めて工事について説明をし、協力を依頼しました。それを受けて、区長からも日当がもらえるのだからできるだけ工事に出てほしいとの話がありました。
 しかし、18軒の小集落のことでもあり、農作業もあることから人夫の集まりは良くありませんでした。その上、かつて借入金の問題での対立のしこりも、人夫の集まりに若干の影響があったと思います。仕方なく区長は、最低3日は村の義務として各戸が工事にでるようにとの通達を出しましました。それでも、毎日必要な人夫は確保できずN組は中後集落から10人ほどの人夫を連れてきて飯場に泊めて工事を進めました。しかし、中後集落の人たちも同じ事情で一人去り二人去りと結局最後には2人ほどしか残らず現場にはN組の奥さんまで出て工事が進められた状態でした。
 こうして、ようやく秋までに条件の良い場所は2m幅ほど、条件の良くないところはトロッコ線路が敷かれるほどの幅で、数百メートルで道ができました。
 降雪期となりN組はいったん柏崎に引き上げました。
 翌年雪解けを待って工事に取り掛かりましたが、相変わらずの人手不足で柏崎から連れてきた2、3人と村人2、3人で工事が続けられました。
 時々、村長や課長も工事の進行具合を見に来ては、区長に村人の協力を呼びかけるようにと指示しました。そのたび毎に常会が開かれ、区長から村人に働きかけがありましたが、やはり人夫は思うほど集まりませんでした。そんな中、N組はチョウナ坂の頂上まで後150mほどの所で工事を突然やめて柏崎に引き上げてしまったのです。その場所は深い谷に面した斜面で工事の難航が予想される場所でした。それを聞いた村長も急いでやってきて区長と話しあい、村でも常会が開かれましたがなかなか良い方策もありません。
 その後、工事の方は役場の方で、当時使われ始めたブルトーザを頼み、2、3日かかって、残った工事をあらかた終えました。
 農協の方ではこれで1kmあまりの道の形ができたところで、1回目の返済を請求してきました。ところが、それに対して再び問題が生じました。請負業者が工事を放棄してしまった以上、村としては農協に借入金の返済は必要ないという主張する人が出たことでした。
 農協でも困惑してしまい常会の席で説明することになりました。町役場から町長、助役、農協からも当時の役員5名が参加し総会が開かれました。しかし、話し合いは双方一歩も譲らず難航を極めました。結局は、居谷集落としては責任を持って返却するということでおさまりました。
 それから数年後になると、高度成長期で国の道路政策も変化し、隣の落合集落方面から重機を使った本格的な県道開削工事が進められてきました。
 その頃になると、道路にかかる宅地、水田、畑は言うに及ばず直径10cm以上の雑木まで買収の対象となりました。
 また、国では、昭和45年に過疎地域対策緊急措置法が施行され、高柳町は指定町となりました。ところが、結果的には、その政策の趣旨方向に逆行するような事態を招くこととなりました。極小集落の町中心地への移転・統合を行い町の過疎を止めるという政策が裏目に出て、過疎を促進するという結果となってしまったのです。
 高柳町では居谷を含む4集落が対象となりました。そして、昭和45年の中後集落の離村につづき後谷集落、白倉集落の全戸移転が実現しました。しかし、実際に高柳町に残った人は極めて少数で、町外や県外に出て行った人が多かったのです。居谷集落でも多くの家が県外に移転しました。
 さて、そうなると農協からの借入金はいよいよ村人の方に重くのしかかります。しかし、幸い、県道の法線が神社の境内にかかり神木の補償金が300万円ほど出たのでそれを借金の返済に充てることができました。
 離村して他県に行った人たちからも、こうして苦労の末に、ようやく借入金を無事に返済できた話が風の便りで伝わったらしく、その年の年賀状には感謝の言葉が書かれていたことを今も覚えています。
 今では、その道路も国道に昇格し、石黒村の悲願であった小岩トンネルも開通しました。今後も、国道の改修工事は続けられ、10年後には居谷集落まで開通する予定と聞きます。