ふるさとへ 柳 橋 孝 (前文略) はじめて学割で切符を購入し、上野駅からふるさとへ向かった。この夜行列車は上越線の宮内で信越線と連絡できるようになっている。昨日からのどさくさで食欲を失い、ろくな食事をしていないせいか空腹を覚える。 かねて父から、宮内駅のホーム内の立ち食いそばが美味しいと聞かされていたし、3年まえ桐生の帰りに父と食べた記憶が甦り、ほんの短い時間のなか念願のそばにありついた。戦時中のことでもあり、この味はいつまで経っても忘れることが出来ない。 一番バスの出る時間帯に柏崎に着いた。家に帰るには二通りの路線がある。今回は平場を走る岡野町行きのバスに乗ることにした。上京するときは小岩峠を越えて出たが、今度は村を縦断する道を歩いて、村はずれのわが家に入りたかったからである。 バスは安田、漆島の平坦な道を行く。ここを過ぎると黒姫山麓の村に入り、林や段々畑が見えてくる。終点まで2時間近くかかる乗車時間も、窓外の景色がなつかしく苦にならない。 明日は8月13日、この地方は一月おくれで正月やお盆を迎えているから、盆の入りである。盆休みの前に田の畔の草を刈ったり、干し草を作り、馬の飼料として貯える仕事もある。馬の好む葛の葉を山で採り、それを編んで軒下にぶら下げて干すから、馬のいる家はわかる。 やっと終点に着いた。さあ、ここから2里の山道を歩くことになるが、小岩峠と違い人通りは多いし、石黒村の部落を3つも通るので淋しくはない。電報も打たずだしぬけに帰る私を、家族や村の人はどんな迎え方をしてくれるだろうか。セーラー服を着て三つ編みのおさげにしている姿を・・・・。私と同い年の娘の何人かが、もう嫁に行き、ほかの娘は紡績工場で働き、家に仕送りをしているというのに、私はこうして自分のことだけに給料を使っている身だ。 そんなことを考えながら歩いていたら、いつの間にか石黒村のとばぐち(入り口)に来た。この寄合部落は本村から離れているため、冬場は分教場が設けられる。ただ、高等科の生徒に限って学校の寄宿舎に入る地域でもある。昔、この地に城があり、味方にのろしを上げて合図したという城山の険しい難所だ。やっと山を登り、下を眺めると眼下に下石黒の集落が見えた。私の足取りは自然と軽やかになっている。
家のまわりはきれいに草が取られ、盆掃除がされている。坪庭(花だん)には盆花、池には蓮の花が咲き、なつかしい風景だ。 庭先から、 「先生、おらっしゃるかーい」と声をかけてみた。 開け放たれた座敷には誰もいないので、もう一度「こんにちは」と呼んだ。台所から伯母が舞い掛けで手を拭きながら出てきた。 「おおー。お前か、へさ(しばらく)だったない。夏休みか、さあ、 「信義!すげだ(屋号)の孝子が来たぜい」 大きな声で呼んでくれた。 信義先生が男の赤ん坊を抱いて二階から降りてきた。妻となった人は当時の村長の娘で、私もよく知っている人である。独身時代の先生しか頭になかったので、何となく面映かった。 「こんにちは。先生、あんときはお世話様になりました。都立へ入れたのも先生がきっと内申書をよく書いてくりゃった(くださった)からだと思います」 そこまで挨拶したが、後は声にならない。 「泣くなよ・・・・・。セーラー服が似合うよ。よかったなあ、お前が頑張り屋だから入れたんだ。目的までには登り口なんだからね。ここにいくにち泊まっていかれるんだ?」 「先生、今度、牛込の旺文社に入れたんよ。だから盆がすんだらすぐに帰ります」 「ほう、旺文社か、お前、いつもいい会社さがすなあ。そうだ重克から牛込郵便局に変わったと葉書が来てたっけ。それに干支も去年、物理学校へ入ったというから、みんな近くにいるんじゃないかなぁ。それにしてもお前が都立へ入れたんで、俺もうれしいよ」 先生も心なしか涙ぐんでいるように見えた。 私たちの学年は男子25人、女子25人のため、従来の複式学級が単式になったうえ、いつも師範出たての若い先生が担任になり、教室の中に活気が溢れていた。信義先生は特に、国語と音楽が得意で、作文にも力を入れ、教える童謡は北原白秋と山田耕作の歌が多かった。5、6年担任された金子先生は、数学とスポーツ好きの熱血教師だった。 こんな先生に教えを受けたことと、この学年には旦那様(上部の階級)の長男が多かったせいか、農学校5人、中学校と師範学校に、1人という進学者を出した。しかし、女子の場合、元庄屋の甲子さんと、新田義貞の末裔と言われたお蔵が3つもある家のトミさんの2人が高等科に進んだ。高等科は1年から3年まであったが、女子は各学年に2名くらいしかいなかった。私も進学できない立場だった。 「上がってお茶でも・・・・」とすすめてくれたが、もうすぐ12時になるので、早く家に帰りたいからと、止める手を振り切ってこの家を後にした。私の姿が見えなくなるまで手を振ってくれる2人に心を残して上石黒へ急いだ。杉林を通りぬけ、鯖石川に沿って200メートルくらい村道を歩くと、いよいよわが上石黒の部落だった。 杉林をぬけると、村道の両側に平場の田圃が広がる。盆を迎える前に行う恒例の道普請も終わっている。田の畔や道端に刈り倒された草からでる匂いがなつかしく鼻を突く。 ここからが上石黒の集落となる。黒姫山系の山々に囲まれた内陸性気候のこの村は、朝夕の温度の差が烈しい。昔からこの地には昼寝の習慣がある。そのせいか道を歩いている人影もない。気をそがれた思いで歩いていくと、むこうから、菅笠をかむり風呂敷を背にした下石黒の人出会った。 「昼がすみました」と声をかけられた。 これは12時を過ぎ、昼寝が終わるころまでの短い間の挨拶だ。 ふと目をあげると、8年前通った校舎が見えてきた。ぶな林を背に村を一望できる高台に建つ小学校は、7カ村の本校で、どの集落からきても真ん中にある。学校の道筋に役場、駐在所、郵便局と、よろずを商う一軒の店が並び、左手にこの村の総本家がでんと構えている。村の端にある私の家までいくには、3つの橋がある。鯖石川の流れに沿うように旧家が点在している。こんな秘境の地に逃れてきた落人が、分家を繰り返しているうちに住民も増えて50戸になった。 古い順に立地条件のいい場所に家がつくられたからであろうが、分家は山の斜面に張り付くように建っている。石黒村の特質は、田辺、大橋、中村、矢澤の一族がかたまり、元和以前から住んでいることだ。その中でも上石黒が中心的な存在でいちばん文化がひらけている。 二つめの橋を渡る。川は曲がりくねって流れているから村道も同じ方向で走っている。少し歩くと両側に民家が並ぶ。その先の方に私の家の本家が見える。かねて父から、家に入る前に必ず本家に挨拶に行くように教えられていたので、寄ることにし、開け放たれとばぐちに入る。馬が私の方を見てヒヒンと鼻を鳴らしたから、馬面を撫でてやったら目を細めた。私を覚えていてくれたのだろうか。馬小舎は家の土間のところに設けられ、家族といつしょだ。この辺では馬のいる家は豊かということになっている。 「こんにちは、ただ今帰りました」 しーんと静まり返った家の中。午睡かなと思い、そっと座敷の中を覗いたが誰もいない。どうしようかと考えていると、奥の間から、おっかさが出てこられた。 「おや! まあ! お前さんか。夏休みかいね。女学校へ入りゃったと聞いたが・・・・。がんばりなさったねえ。おらどこのあんちゃも明日帰ってくるんだかね」 このひとには子がなく、東京の血縁から男の子を養子に貰っている。その息子は私と同級生で、安塚農学校から加茂の高等農林へと進学したときいている。挨拶をし、みやげの煎茶を渡して 「あとで、ばばさまに逢いにくるすけ」 そう言葉を残し、玄関を出た。 おっかさは草履を引っかけて門おくりに出て 「ほんにあそびに来やっしやいや」 と声をかけてくれた。うれしかった。 本家の庭から我が家が見える。川向こうの崖の上に建っているが、家の前にある杉の木が邪魔して屋根しか見えない。朝から何も口にしていないので空腹だ。しかし、もう一軒ここから歩いて一分のところにある母の実家に顔を出さねばならない。早く行かないと午睡が終わり、山へ出かけるかもしれない。 祖母は80歳を過ぎているのできっと家にいると思った。案の定、這いつくばるような格好で庭の草とりをしていた。働き者という評判の通り、午睡もしないらしい。 「ばあー(祖母)ただいま」 「あんら! まあ! よしこか。音(連絡)なしできたんか? トワ(母)はしらんろうが」 曲がった腰をのばし、顔をくしゃくしゃにしてよろこんでくれた。この祖母は成人した孫たちが訪れるたびに小遣いをたくさんくれるのでふところは豊かで、末っ子の孫の私はその恩恵に与ってきた。 「んで、どうしたがんだ。墓参りか?」 急な帰省に心配が半分のようだ。 「勤め先で盆休みくれたすけ、やっと帰れたんだがね。18日には帰らんと駄目なんだ」 「あとで遊びに来いや。さあ行け」 母の待つ家へ早く行けと私をせき立てる。 三つ目の橋を渡り、坂を一気に駆け登る。がんぎ(正面の口)から大きな声を張り上げて 「ただいま!」 と、言葉が終わらないうちに座敷に上がっていた。どうしたことか、まるで半病人のような顔の祖母が寝間に寝ていた。 「どうしたがんだ。びっくらしたあ」 と、まじまじと私の顔を見た。寝ていたのは血圧が高く、医師に用心しろといわれたからだそうだ。 「若手(若夫婦)は、子供全部つれて、昼もち(弁当)で山へいったすけ。おじさはさっき馬の草刈りに出やったばかりだがない。そいで(それで)どっちから来たがんだ」 小岩峠か、岡野町まわりかをきく。 「岡野町まわりで」 祖母は寝間から出て来て、仏壇に灯明を上げて私を坐らせ、先祖に帰省の挨拶をさせた。 昼めしを食べさせようと囲炉裏でみそ汁を沸かし、おひつを出してくれた。家族が8人もいて、朝一升もたくからご飯はおいしい。 きびしい食糧不足のなかで生活してきたので、むさぼるように食べる自分にはっとする。
昔から自給自足の暮らしをしてきた祖母も母も、一歩も村を出たことがない。都会のことは話に聞いていても解ろうはずはないから、米不足のことは言うまい。無駄な心配をかけて、呼び戻されては困る。この山の中で農業をしている苦労は大変なものだ。それにくらべて私の今の生活は、毎日が盆と正月のようなものだ。 「ばあー。山へ行ってくるねえ」 「少し休めばいいこて(だろう)。よ(ゆ)っくりしろや」 そういうのを振り切って蓑と荷縄姿で、山へと向かった。小さいときから通った作場は、片道が一里もある小岩峠のふもとなのだ。 (後文→作場おおぬげの思い出) 柳橋孝著「あとには虫の声しげく」から抜粋 〔著者 柳橋孝 旧姓田辺 上石黒出身 川崎市在住〕 |