寄合集落の入之島橋と城山の旧道、寄合橋について

 現在の「新入之島橋」は4代目(平成1711月竣工)であり3代目「入之島橋」(昭和40年12月竣工)は、今も川下側のすぐ近くに現存している。

2代目は木橋で、3代目の橋の上から川下側斜め下を見下ろすとコンクリートの橋脚基礎が残っている(下写真)

 

石黒に車道開通が実現しバスが通るようになったのは昭和26年であるからバスはこの木橋を通ったことになる。

1代目は2代目から50mほど川下に架けられていた。位置は矢沢清吉さんの田〔現在休耕田〕の県道側から斜めに対岸に架けられていた。現在は、砂防ダムができたために川底は浅くなっているが当時は非常に深く橋の上から川面を見ると目がくらむような高さであったという。矢沢さんの話によると橋の幅はわずか6尺(180㎝ほど)であったが川面から高く鶴の脚のような橋脚であったという。あまりも高いために当時、高所恐怖症の人がいて、他人に手を引いてもらって目をつむって渡ったという逸話が残っているほどである。

「入之島橋」が大水により流れたということはないが、1代目、2代目の橋の先方(下石黒方面)は「やせんぐら」と呼ばれた急斜面に作られた道で冬期は雪崩が道を越えて川にまで達することが多かった。

   「やさんぐら」の急斜面 下は石黒川

特に、現在みられるほほ直角に切り立ったがけの少し川下の辺りが最も危険であった。なんにせ、川沿いの斜面に作られた道は幅6尺(180㎝)ほどであるため、小規模の雪崩も道を乗り越えて川まで達したというのだから冬期はおちおち通れる道でなかった。
 車道が開通してからも、雪崩の危険のある個所に雪崩止めの設置が行われるまでは同様の状態であった。
 
そんなわけで、冬期は小学6年生までが寄合集落にあった分校に通い、中学生は本校の寄宿舎に泊まり土曜日に帰宅した。村人たちは冬期にはもっぱら集落の屋号「かくぜん」の付近から上り城山の尾根伝いに歩いて上石黒や下石黒に通ったという。

城山の尾根伝いの道は昔から冬季以外も上石黒から寄合の主要道路であり、もっぱら利用され一定の道幅もあって安心して通行できた。 馬道もあり 当時、寄合出身の石黒村村長(昭和9~12年)の矢澤松平さんは夏は下駄履きでこの城山の道を上石黒にあった役場まで通勤されたと聞いている。

(※また、松沢橋や入り之島橋のなかった時代は石黒川の水量の少ない夏季など、下石黒まで川伝いに行くことができたが上り下りが多く時間もかかり子どもが遊びかてらに行き来した程度であったと伝えられる。)

しかし、この道は、冬季の積雪期には南北両面切りたった尾根を歩いたため危険な場所が数カ所あった。
  城山の尾根伝いの旧道 難所の神明様と御殿の位置

 とくに神明様付近と石黒城址に上る「御殿(ごてん)」と呼ばれる箇所は足元から断崖絶壁で、身がすくむほどであったという。とりとりわけ「御殿」は馬の背のような道で両側は断崖絶壁、北面は100m下の石黒川に崖状に落ち込み、南面は同様の斜面で落合川に落ち込んでいた。御殿の冬道には毎年ダイモチ綱(太い藁縄)が取り付けられそれをつかまって一歩一歩上ったとの事だが万一転落すれば助かる望はないほどの断崖絶壁であった。神明様の難所にも同様のダイモチ綱か取り付けてあったという。

この寄合から上石黒までの冬道の所要時間は大人の足で約1時間ほどであったという。

 このような、冬道を大人のみならず子ども達まで長い年月にわたって通り続けたにもかかわらず、遭難事故が一件も起きたという言い伝えがない事は、まことに幸いなことであった。
 現在の「新入野島橋」は平成17年に「野仏橋」、「やさんぐら橋」と連結して「やさんぐら」の危険個所をよけて直線に改修され雪崩の被害の心配はなくなった。




 寄合橋について
 現在の寄合橋は
4代目、3代目の橋は下流側近くに現存している永久橋-
(下写
)

 1代目の橋は更にその川下にあり木橋であったが、昭和9年7月の豪雨で流失した。その後、2代目がつくられ
昭和30年の3代目の永久橋が竣工するまで使われた。したがって、昭和27年の車道開通の年に初めてバスが通ったのは2代目の木製の橋であった。

          3代目の橋から見る現在の橋

 

※「1代目橋」とは現在、聞き取りで確認できる最初の橋の意味


 (情報提供-矢沢清吉)