地蔵峠の秋
        前沢潤著 柏崎の史跡今昔から

 すり鉢状の石黒村は、黒姫の山懐深く、その重畳たる山波は、この地域を孤立させ、刈羽群のチベットと呼ばれてきた。
 なんとか県道で他地域と結ばれたいというのが、この谷に住む者の共通の悲願であった。しかし、その悲願はなかなか叶えられず、今から30年前までは、すべての交通は馬の背と人の足に頼る他はなかったのである。
 松美町に住んでいられる大橋健さん(73)・美さん(70)夫婦も、かっては石黒の住人であった。2人が石黒で結婚したのは昭和5年3月28日であったが、この目出度い振る舞いの魚を買いに、健さんは雪の地蔵峠を越えて、柏崎まで歩いて日帰りにしたという。リンゴ箱に詰めた「刺身魚」の「ブリ」を背に、峠を越えた日の思い出は今も忘れられないという。

 石黒支所の前に、昭和27年9月5日付の刈羽地方事務所長神戸八郎氏の撰文による、開通の碑が建っている。「石黒村は明治36年県道荻の島・浦川原停車場開通を請願、爾来忍苦五十有余年、村民あげての願望に余も微力を尽くさん事を約す。即ち林務・耕地・土木等あらゆる機関の協力をもとめ、田辺伊久村長時代、遂に人道を完成す。今茲に1600村民とともに、先覚者の苦闘をしのび、全通の感激を刻んで、永遠にこれを記念す」とあった。
 この一言一句に、ようやく悲願がかなえられた石黒住民の喜びが、にじんでいるようである。

 昭和28年6月4日、待望のバスが上石黒のお振りお婆さんの家(田辺重順氏宅)の前までやってきたのである。
 このバスを運転して始めて石黒に入った鈴木春由氏(越後交通柏崎駅前案内所主任)は、この日の思い出を、こんな風に話してくれた。「県道として開通はしたものの、まだ砂利も入らない未整備の道で、タイヤが滑ったり、めり込んだりしてなかなかの難行でありました。石黒集落入り口近くでとうとう動けなくなったときなどロープやスコップで掘り出して引っ張ってもらいました。子どもたちも日の丸の旗をちぎれるばかりに振って迎えてくれました。それどころかバスに乗る人たちの中にはもったいないといって下駄や靴をぬいで乗る人もありました」当日の石黒の人たちの喜びようが、今も胸にしみるようである。

 県道が開かれバスが通って、石黒村に新しい時代が訪れるとともに30年前まで大切な生活道路として頼みにしていた地蔵峠は、その後通る人とてないまま忘れられた道となってしまった。「9月4日の地蔵まつりに、村の衆も参られたから、道はまだ大丈夫でしょうよ」というお振お婆さんの励ましの言葉に送られて地蔵峠をめざして大野部落へと向かった。

 上石黒から大きくカーブする上り道は、地盤のもろい地滑り地帯を通る。道路沿いの崖ぶちでは砂防用の堰堤工事が続いていた。
 登りつめると明るい稲穂のゆらぐ高原が広がる。関甲子次郎氏の刈羽郡案内によると明治10年代には18戸あったという大野部落は今は12戸とか。だがこの部落には過疎地につきものの廃屋も目にとまらないし暗さもない。がっちりとした農家の軒先にはピカピカの農機具といっしょにスマートな自家用車が並び、どの家の庭先にもダリヤやサルビヤが高原らしい住んだ色彩を見せている。
 部落の中ほどに黒姫神社の小さい社があった。この部落の北背部の丘は、延びてやがて黒姫山の尾根へと続く。この屋根づたいにかつての地蔵峠への旧道が通っていたという。しかし、通る人とてないまま今は草に埋もれ果て、代わって新しい農道が屋根の中腹をぬって、真っ直ぐに黒姫山に向かって延び、見事に耕された千枚田には黄金色の稲穂が秋日和の中に輝いていた。
 農道を進むにつれて黒姫山(889m)の雄大な山容が迫ってくるその山頂から左に延びる尾根と右手645mの嶺からの尾根がからみ合う隘部(あいぶ)が、目ざす地蔵峠である。

 石黒部落を出てちょうど1時間で農道もとぎれる。それからは草深い旧道を探し登らねばならない。2人とも手頃な小竹の棒をひろって蛇よけにすることにし草の茂みを打ちながら登っていった。(略)道にはススキがそよぎ、ハギが咲きこぼれて、オミナエシ、オトコエシの淡々しさもやさしく、ウドの白い花には昆虫がとび交え、ノコンギク、イヌタデ、ミゾソバ、ミズヒキ、ツリフネソウと足のふみ場もないほどの花野が続く。中でも秋空を映したかと思うばかりの澄んだ青さのトリカブトの群がり咲く様はたとえようのない美しさであった。その時折目路の限り広がる石黒谷のすばらしい眺望には、魂をうばわれるばかりであった。
(昭和54年−1979頃の著作)