県道改修予算配分について請願に対する返書(発信者-内藤久一郎・受信者-矢澤松平)
 
          読解文
 前略、先般来お話これあり候、貴村内県道
改修の件につきては、先日、助役殿へも申し置き候
通り、不日、県あるいは派遣所より技手調査に参る
筈に御座候、尚また、この度臨時県会に於いて決定
配当相成り候、町村土木費貴村分は、六百円と
相成り居り候も、近く追加配当として七、八百円程度
のもの参る様致し置き候間、ご承知下されたく候
就いては、配当額の全部を県道改修に振り向け
る様、村会のご決議相成り度、さもなければ実現
困難のように存じられ候、配当額の上に指定修繕費
を加え、更に不足分は十一年度改修として発案
相成る様致したく都合に候条、御諒知の上御進捗
相成り度候
先ずは、右貴意を得候也    怱々
 四月二十九日
            内藤久一郎

矢澤松平殿                                              


           
 備  考
 内藤久一郎は、新日本石油株式会社初代社長内藤久寛の子で昭和11年(1936)の選挙で立憲民政で新潟3区より立候補し当選、衆議院議員となる。この手紙の消印は10年4月29日とあるのでその前年のものである。
 矢澤松平は、当時の石黒村村長である。前年昭和9年には昭和5年以来の記録的な豪雨により郡内に甚大な被害が発生。石黒では寄合橋が流失し学童生徒は城山尾根伝いの険しい道を通っての通学を余儀なくされる。特に冬道は地形険しく危険なものであったと今に語り伝えられる。
 このような事情のもとで県道改修の早期実現は切実な願いであった。特に、村長矢澤松平は寄合村住民であったのでその切実感はひとしおであったに違いない。
 本文によれば、陳情に対して内藤久一郎は、県当局への働き掛けをしたこと、補正予算と合わせて7〜8百円ほどの配当額になることを伝え、更に、この配当を確実に獲得するためには県の配当額全額を県道改修に振り向けることを村会で議決することなど対応を助言している。
 ちなみに、県道荻之島〜浦川原停車場線が県道に認定されたのは昭和元年であるが、車道開通の25年も前の事であり、当時は名前ばかりの県道でその実態は山道同然であった。
   (矢澤繁徳家文書-解読・備考文責 大橋寿一郎)