終戦直後のくらし 敗戦後は、私の祖母が心配したようなことにはならず、私たちはそれまで通り登校することができました。 しかし、学校の教育方針は、連合軍の占領(せんりょう)政策によって大きく変わりました。 そのため、二学期の始めには教科書の墨(すみ)ぬり作業がありました。それは、今まで使っていた教科書の中で戦争に関係のある文章や絵を墨でぬりつぶす作業でした。 担任の先生が、その理由をどう説明されたかは記憶にありません。低学年のことですから特に疑問も持たなかったのでしょう。ただ、格好いい兵隊さんや飛行機などの絵があるページを、墨でぬりつぶすのは惜しいなと思った程度だったと思います。 また、私が2年生になった4月に、新しい教科書が配られました。ところが、これが新聞紙ほどの大きさで1枚に16ページ分が印刷されたもので、紙の質も現在の新聞紙以下の粗末(そまつ)なものでした。私たちは先生に言われた通り、家で母や兄姉からハサミで切り離して糸でとじてもらったことをおぼえています。 教科書でさえ、こんなでありさまでしたから、子ども向けの本など日本中を探してもほとんどなかった時代であったと思います。 私が4年生の時に、現在の上越市高田につれて行ってもらったおり、何軒かの本屋を訪ねたのですが、どこの店も棚(たな)に数冊の本があるだけでした。 それが、あまりにも異常なことであったため、今でもその異様な光景が目に浮かびます。 こんな時代ですから、学校で使うワラ半紙などは非常に薄(うす)く灰色がかっていて、ワラの繊維(せんい)が見える粗末(そまつ)なものでした。その上、鉛筆の芯(しん)の品質が悪いため、字を書くと紙が破れるのです。破れないように鉛筆の芯(しん)をなめながら書いていました。 |
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また、消しゴムなどは全くありませんでした。私は家の縁(えん)の下から、古長靴を引っ張り出し、かかとの部分を苦労して切り取りとりました。それを消しゴム代わりに使ってみましたが、用をなさずがっかりしたことをおぼえています。 このように、終戦後の2~3年は、日本中がかつて経験したことのないほど物不足の時代でありました。学用品など買い求めようにも、どこにも品物が売っていなかったのです。 こんな時代ですからゴム長靴など持っている子どもはほとんどいませんでした。子どもたちは、春から秋はワラゾウリ、冬はフカグツを履いていました。 しかし、雨降りにはワラゾウリだと泥(どろ)をはね上げ衣服が汚れるため、たいていの子どもは裸足(はだし)で登校していました。当時は道路に砂利(じゃり)を敷(し)いてなかったので裸足(はだし)も慣れれば苦にはなりませんでした。それどころか、学校に着くと、足洗い場の溜め水の中で足踏みを2~3回すれば、校舎に入れるので便利なくらいに思っていました。とはいえ晩秋のミゾレの降る頃になると、裸足では冷たく、ゴム長靴をほしいと思ったものでした。 私が4年生の時だと思いますが学校に長靴の配給がありました。各学年に2足ほどの割り当てですから、全員でくじ引きをしました。私は一度だけくじに当たったことがありました。その時は、とてもうれしくて家の座敷の中を長靴はいて歩いて父に叱られたことを憶えています。 ところが、これほど私を喜ばせた長靴が、1週間も履(は)かないうちにずたずたに切れてしまったのにはがっかりしました。今思うと、その長靴のゴムは弾力性(だんりょくせい)に欠け硬(かた)く、何か白い粉のようなものが一面に付着していたように記憶しています。 ところで、「農村では、食べ物に不自由はなかった」と皆さんは思うでしょうが、実はそうでもなかったのです。私の生まれ育った村はとても山奥で、耕地(こうち)の少ない所でした。その上、当時は供出米(きょうしゅつまい)の割り当てが厳しく、食生活も貧しいものでした。もちろん都会では、もっと深刻な食糧難であったでしょうが、当時は全国的に代用食が奨励(しょうれい)されていました。 |
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私の家の代用食は、マメごはん、サツマイモごはん、アワごはん、ダイコンごはんなどでした。とくに、マメごはんとダイコンごはんは美味しくなかったことを覚えています。 学校に持っていく弁当も、今のあなた方の弁当とは比べようもないほど粗末なものでした。ご飯にナスの味噌づけくらいなもので、卵焼きなどをもっていく者はほとんどいません。 (私の家ではニワトリを15羽ほど飼っていましたが、卵を食べるのはお盆や正月などのほか、風邪をひいた時くらいなものでした。他の卵は見舞いなどに使うため、村の人々が買っていくのでした) そんな粗末なお弁当さえ持って行けずクズ玄米(げんまい)を挽(ひ)いて粉にしたもので作ったチャノコと呼ぶ団子をもって来る子もいました。この団子は、今の皆さんが食べても不味くて、おそらく喉を通らないのではないかと思います。 こんな有様ですから、おやつのお菓子などあろうはずもありません。ほんとうに砂糖は日本中どこの家にも無い時代でした。 そんな時代でも、農家に育った私たちはサツマイモやスイカ、トウモロコシなどが食べられただけ幸せでした。どこの家でも、サツマイモやカボチャをゆでたものを子どものおやつにしていました。大抵の家ではそれらを竹ザルにいれて、囲炉裏の火棚のうえに置くのでした。子どもたちは学校から帰ると、その竹ザルをおろして、サツマイモやカボチャを食べてから遊びにでかけたものでした。 それから、山深い私たちの故郷には、「天(自然)から与えられるおやつ」とも呼びたいものが季節を問わず色々ありました。 春には、スッカンボ、スイバ、クワイチゴ、ナツグミ、サクランボ、ヤマツツジなどがあり、夏には、ナワシロイチゴ、モミジイチゴ、カクミノスノキ、ヤマボウシ、秋には、クリ、アケビ、ツノハシバミ、ブナの実、ミヤマガマズミ、エビヅル、ギョウジャノミズ、クマイチゴなどがありました。冬でも、雪の上に落ちたケンポナシや完熟して新雪の上に落ちた渋の抜けた柿がととても美味しかったことを忘れません。現在のアイスクリームに負けないほどおいしかったように思います。 |
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そのほか、試しに食べるという冒険をすることもあり、一度、友達とヤマフジの種子を炒(い)って食べたことがありました。すると意外と美味しいので、つい食べ過ぎたせいか、激しい目まいを起こしました。立っていることができず、その場で地面に横になりましたが、木や山がグルグル回って見えたことを忘れません。(※調べてみますと、ヤマフジの実には毒成分があるとのことです) 当時は衣服は、たいへん粗末(そまつ)なもので、低学年の子どもは、ほとんどの人がキモノをきていました。冬は綿入れのキモノで洗濯(せんたく)が簡単には出来なかったせいか、袖(そで)のあたりが鼻汁で光っているような子どももいました。 中学年のころから洋服を着て登校しましたが、ズボンなどは、大抵の子は膝につぎ布が幾重にも当てられていたものでした。また、下着の洗濯なども一週間に一度くらいで不衛生なものでした。 私が中学生のとき、ズボンが擦り切れてしまい祖父が日露戦争(にちろせんそう)のころに着たというズボンを履(は)いて通学しました。それは、いくつかの金具がついた軍服だったのです。当時の流行とは逆の細身の幅のズボンでしたが、恥ずかしいなどとは少しも思いませんでした。 雨具は、雨の日にはゴザボウシと呼ぶ、畳表のようなもので作った雨具を使っていました。ゴザボウシは、軽い上に風雨の時には前を閉じることもできて便利でしたが、激しい雨の時は水滴が裏に通って衣服をぬらしてしまうという欠点がありました。高学年なると夏には半ズボンにスゲガサをかぶり、裸足(はだし)で通学しました。 |
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冬になると、ワラボウシやスゲボウシ、またはミノボウシなどを使いました。これらは、形はゴザボウシと同じのですが、材料がワラやスゲを使って作ったものなのです。とくにミノボウシは、民芸品と呼ぶにふさわしいほどの美しさがあるばかりか、温かく、降ってくる雪が付着しないという長所がありました。(ワラボウシなどは雪が付着して重くなるので、時々ふるい落としながら歩きました) また、冬の履物(はきもの)としては、フカグツ、ワラクツ、オソカケ、シブカラミなどと呼ぶものがあり、いずれもワラで作ったものでした。 私たちは、降雪期にはフカグツをはいていました。これは長靴の一種で、軽く、温かく、それに雪道でも滑ることなく安全で、冬の履物としてはとても優(すぐ)れていました。さらに当時の簡略な金具のスキーにも、ゴム長靴にくらべしっかり固定するという長所もあったのでした。また、ワラグツの中に雪が入り込み解けて冷たく感じるときには、中敷きに入れておく三つ折りにした敷き藁(わら)を取り換えてやればそれでよかったのでした。 高学年になると自分用のワラグツは自分で作る人も多くいました。私が中学3年のときの冬休みの課題がフカグツづくりで、初めての経験でありとても苦労したことを忘れられません。 先に、当時の衣服の洗濯について書きましたが、当時の衛生状態はとても悪いもので、寄生虫(きせいちゅう)の回虫を、ほとんどの子どもが持っていました。朝起きると肛門(こうもん)から10㎝ほどの回虫がぶら下がっていたなどということは珍しいことではありませんでした。そのほかに、蟯虫(ぎょうちゅう)という寄生虫のために肛門がかゆくなるのでした。これは、蟯虫が肛門の周りに卵を生むためだそうです。 こんな状態でしたから、敗戦直後は、回虫駆除(くじょ)の薬を学校で児童や生徒全員に定期的に飲ませたのでした。私が覚えているのは、まずマクニンという茶色の錠剤で、その薬を飲んだのは一回きりでしたが、その時の錠剤(じょうざい)が溶けがかったような状態でひどく飲みにくかった記憶があります。 その後、マクリという海藻(かいそう)を大きな釜で煮(に)出した「カイニンソウ」という薬をご飯茶わん一杯づつ飲んだこともありました。さらにその後、「サントニン」という薬を飲みましたが、これを飲んだ後は、白いものが黄色く見えたことを覚えています。 このように、学校では定期的に駆除剤(くじょざい)を服用しましたが、家庭では、人糞(じんぷん)を野菜栽培の肥料に使っていたこともあり、回虫などの寄生虫は昭和30年代後半まで、根絶(こんぜつ)できなかったのでした。とくに、蟯虫はその後、数十年も学校で定期検査がありました。 ノミ、アタマジラミ(女の子の頭髪の中に寄生する)はもともといましたが、終戦直後はコロモジラミが発生し、学校で定期検査が行われました。先生が一人ひとり肌着を検査し、1匹でも発見されたものは家に帰って煮沸(しゃふつ)して駆除するように言われました。私も一度、検査でシラミがいたため、家に帰って大き鍋(かま)の煮立ったお湯に下着を入れてもらったことを覚えています。 しかし、これらのいずれも、戦後にアメリカから入ってきた殺虫剤DDТによって姿を消しました。 この殺虫剤は人畜無害(じんちくむがい)とされ、学校で何回か襟(えり)から直接に体に吹き込まれました。女の子は髪の毛の中にも吹き付けてもらいました。 手押しの散布機で背中にDDТの粉を吹き込まれた時のヒンヤリとした粉の感触を、私は今でもはっきりと思い出すことができます。 DDТは、そのほか、住居、そして田畑にも多く使われ、その効果は実に素晴らしいものでした。DDTをたたえる歌がつくられ学校で歌われたほどでした。 DDTは、まさに、日本のみならず当時の世界中の衛生環境を一挙に改善した薬品であった言ってよいと思います。 しかし、1960年代に出版されたレイチェル・カーソンの著書「沈黙の春」により、化学物質としての危険性について指摘され、今日では世界中のほとんどの国で作ることが禁止されていることは、すでに、皆さんに授業でお話しした通りです。 |
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