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     3   月

    
えんのこ朔日 (1日)

 米の粉を練って十二支の動物をかたどり、平皿や盆に十二支順に並べて神棚に供えた。 作ったえんのこは、9日の山の神の日に神棚から下げて、囲炉裏で焼いて食べる習慣もあった。
 昭和20年代以降は、どの集落でも、この行事を行う家は少なくなった。




     節 分 (3日) 

 昼間、豆を煎ってマスに入れて神棚に供えておき、夜になってからまいた。

まず、雨戸を閉め切って「福は内、福は内」とまく、それから戸を開け払って「鬼は外、鬼は外」と唱えながら豆をまいたという。
 まかれた豆を、自分の歳だけ拾うと災いを除けることができる言われ、家中で競って豆を拾う賑やかな家庭行事であった。
 この行事も、終戦のころにはほとんど行われなくなっていた。
補記→節分について
参考資料→縄文時代の豆について



     春 回 檀
 
 春回檀は3月の初めに行われ、寺宿(テラヤド→輪番制)をした家で夜、お講(講会)が開かれ村人が集まって菩提寺の住職の説教を聴いた。
 お講の始まりの合図はホラ貝
(下写真)を吹いた。(当時、法螺貝は葬式や道普請など村内の行事の合図にも用いられた。もっと以前には、火災など災害を知らせる時には、2つのホラ貝を一緒に吹く習慣があったという。)

 
ほら貝(矢澤松平宅) 

 未だ、数メートルの残雪の中で寒さも厳しく、お講の行われる座敷には沢山の火鉢が用意された。
 石黒では、正月の寺年始は菩提寺が遠くにあったため(補記4)行わず、この春回檀の時に行った。包むお金は昭和の初め頃で、50銭から1円ほどであったという。
 寺からも抹香一袋と布巾、縫い針セットなどの年始が配られた。
 寄合集落では特に寺年始の習慣はなく、年忌のある人がボンウチに行くだけであった。
 この春回檀のころに、寒の戻りで吹雪の荒天となることがあり、石黒ではこれを密かに「坊主荒れ」などと呼んでいた。

資料→お講の思い出



    針供養(8日)

 この日は、針仕事をしないで針の供養した。とくに行事らしいものはなかったが、女衆が集まってお茶のみをして楽しむ集落もあった。
補記→針供養について



    山の神 ( 9日)

 この日は一日中、山に入ってはならないとされ、村人は、小豆飯や団子を作り山の神に供え山仕事の安全を祈願した。
 子どもも、この日は山遊びに行くとケガをすると言い聞かされていたので山には近づかなかった。
 寄合集落では、前日から米を水に浸して置き、当日(9日)朝、その米をスリバチで摺り団子を作った。その団子をツトッコ(ワラ製トレイ)に入れて干し物竿に下げて庭先に立て山の神に供えた。このツトッコの中の団子をカラスが食べると縁起がよいと言い伝えられた。
 補記→山の神の供物

 板畑でも、大昔、東南に連なる山の中腹に小さなほこらと鳥居を建てて山の神を「作神様」として安置したと伝えられている。そして2月9日には、米をすり団子を作って山の神にお供えして祈願する習わしが今日まで伝わっているという。
資料→山の神の思い出



  団子まき (15日・上寄合)
 
 この日は、釈迦の涅槃の日にあたり、寄合集落ではカスダ(屋号)の家で団子蒔きが盛大に行われた。

 前日の14日に村人が屋号「カスダ」に集まり、石臼を2台仕立てて、およそ1斗の米を石臼で挽いた。そして、コネバチの中でこねてビー玉くらいの大きさの団子を作る。
 更にそれをセイロで蒸かしトリコナ(米粉)をつけて、涅槃図を掛けた床の間に供えて翌日の団子まきに備えた。(団子湯も飲むこともあったという)
 当日の日程は、カスダの家で分校の学芸会(本校児童も出演)を行った後、団子まきをしたという。団子はミ(箕)に入れてデイ(客間)に集まった観客に向かってまいた。毎年、おおよそミで三つほどの量をまいたという。
 拾った団子は、家に持ち帰り囲炉裏のホドで焼いて食べた。



念仏講 (彼岸の中日・板畑・下寄合)

 春秋の彼岸の中日に、講宿に集まって大数珠をまわして念仏を唱えた。参加者は家事を嫁に渡した女性が主であった。講宿は参加者の各家を順番に回った。
 また、葬式の翌日に、その家に集まって念仏を上げた。
資料→念仏講について
 下石黒では、女人講中や二十八日講中などの念仏講のような組織があり、年に数回、菩提寺や角間から僧侶を呼び。見真大師〔親鸞〕の御影を掲げて法話を聞き釋達如の経文を読んで信仰を深めた。
 二十八日講は親鸞聖人の命日である28日にちなんで行われる講であり、下石黒など各集落で昔から行われたことが古文書等で伝えられている。
 このように、もともと、講(こう)とは、同一の信仰を持つ人々による結社であった。
ただし、その後、無尽講など相互扶助団体の名称に転用されるなど、「講」という名称で呼ばれる対象は多岐に渡るようになった。
資料→二十八日講中などについての文書



二十三夜講 (23日・上寄合・板畑)

 三夜講と呼ばれ「さんや様に食べ物を供える」などといわれた。禅宗の家の女たちが集まり、掛け軸をかけてご馳走を食べた。

 
 板畑 二十三夜塔
板畑ではソバを作って食べたという。毎月23日に行なっていた。講中の集まりの内容は、庚申講とほぼ同じであった。
 二十三夜塔は現在、上寄合は屋号かくぜぇんの家の裏山にある。板畑は集会場〔元板畑分校の前にある。






       4   月

      春 祭 り        
  
 寄合松尾神社祭礼(15日) 
 板畑熊野社祭礼(15日) 
 大野黒姫神社祭礼(15日) 
        
 日増しに暖かくなり残雪も目に見えて減り、春仕事が気になる頃の祭りであった。

上寄合集落 松尾神社

どこの家でも、14日の宵祭り(宵宮)には餅をついた。      (補記11 宵宮について)
 15日は、神社に参拝してから招待した親類縁者を囲んでご馳走を食べて祝った。寄合集落では神社に参拝した後、城山入口にある神明様と呼ぶ祠に参る人もあった。
 板畑の熊野社の祭礼では岡野町より神主を招いた。

板畑集落 熊野社

 神主は前日やって来て区長宅に泊まり、祭りの神事を行う他、希望する家々を廻り、荒神ばらいや厄ばらいを行った。
 寄合集落では神社にお参りした後、城山の神明様と呼ばれる祠にお参りに行く習慣もあった。
資料→上寄合 神明様(姫様)
平年であれば、境内の雪もほぼ消えて桜のつぼみも大きくふくらむ頃であるが、大雪の年は、1メールを超す残雪の中での祭礼となった。

大野集落 黒姫神社

 しかし、4月半ばともなるとすでに春の陽気であり、神社の周囲のブナは残雪の中で一斉に芽吹き始める。 
 また、陽当たりのよい山のヘラ(斜面)ではノノバ(ツリガネニンジン)やウルイの芽が採れ、初物の山菜のオシタシ(浸し物)となってお祭りの食卓に並べられた。




    ダイモチシキ
 
 集落で住宅を新築する家があると、用材の搬出がこの頃に行われた。暖気でしまった残雪の上をダイモチゾリを使って奥山から丸太を運び出す。〔3月頃からはじめられた〕

 これを石黒では「ダイモチシキ」と呼んだ。  ダイモチシキは、原木の先をダイモチゾリ に乗せ、ダイモチ綱を、14、5人〔普通の大きさの木〕で引いていて搬出する作業である。  ダイモチゾリは2本のソリを1本ずつ運び現場で組み立てて、大木の先を載せて2本のダイモチ綱で引く。組み立てにはフジづるを使ってしっかりと結わえた。坂を下るときには、先棒をとる人が先頭左右に二人ついて舵を取る。この人を「ソリモト(橇元)」と呼んだ。後の人は2本のダイモチ綱でブレーキをかけながら下りる。ブレーキ作動がうまくいかないと先導の人に危険が及ぶことになる。上り坂を引き上げるときにはソリを材木の先から後方へ移動した。
 石黒のような急な山坂の多い所でのダイモチヒキは危険も伴う仕事でもあった。
 とくに、大がかりなダイモチシキでは、全員の呼吸をあわせ力を結集することが大切であるため、音頭取り(木遣り)が音頭をとった。
ヤーレー、ヤーレー
ヤーレー、ヤーレー
ヤー、そろった、両手に綱持て
ヤー、エンヤラサー
ヤー、皆さん、お願いだぜ

 など、音頭とり〔木遣り〕は、声のかれるほどの音頭で引き手の力を結集した。
 音頭には、盆踊りのションガヤの文句に似た次のようなものもあったという。
資料→木遣り師(田辺甚十郎)

 引き手は、音頭にあわせ渾身の力を振り絞って引っ張ったり押したりした。テコ棒も大切な道具であった。
 険しい山坂の多い石黒では、ダイモチシキは道作りからして大変な仕事であった。また、このころに起きやすいナゼ(全層雪崩)に対する配慮も必要であった。 
1883年〔明治16〕の東本願寺再建の用材運搬中の尾神嶽の雪崩による事故は有名である。

毛 綱

 そのとき使われていた大橇が石黒村の田辺重栄と田辺重五郎両氏の寄進によるものと伝えられている。また、ダイモチぞりによる雪上運搬での木遣り師は上石黒の田辺甚重郎(屋号エイニャマの先祖)と伝えられる。
 その時のダイモチ綱(毛綱)を作るときには、石黒村でも多くの女衆が毛髪を寄進したと伝えられる。

補記→毛綱
資料→尾神嶽雪崩事故
資料→ダイモチヒキの思い出
資料→東本願寺再建用材を運んだ大橇
資料→東本願寺用材運搬中の尾神岳雪崩事故資料
資料→尾神嶽雪崩事故の用材の伐採地について
資料→東本願寺展示大ゾリ・鼻ゾリ・毛綱
資料→ダイモチ綱と橇−民具補説


     カ ヤ そ い  

 毎年、雪消えを待って、どの集落でもカヤ講の「カヤそい」が行われた。このカヤは屋根の葺き替えに使うもので、前年の秋に共同作業で刈り取ってカヤマル(刈り取ったカヤをひとまとめにして立てたもの)にしておいたものだ。
 当時、屋根の葺き替えに使うカヤは必需品であり、どこの集落にもカヤ講があり毎年もらう家の順番が決まっていた。

 カヤ講の受給者は、カヤそいの前にカヤマルを道の近くまで下ろしておかなければならない。
 カヤ場(下の表参照)は谷をまたいだ山の斜面にあることが多く、残雪の上を歩いて谷川を渡れる内に谷のこちら側まで出しておくことが必要であったからだ。
 この仕事を石黒では「カヤ落トシ」(山の斜面を大きく束ねたカヤを落とすことからついた呼び名)と呼んだ。
 カヤそいはそこから村の受給者の家までカヤを運ぶ作業である。
 上、下石黒集落では、カヤ12把を一人分として運び、その日に終わらないときは村中で「チャメガヤ」と言って朝飯前に背負いに行ったという。

下石黒のカヤ場〔2006.10.14撮影〕、すでに中央には樹木が繁茂している。

 数キロメートルもの山道を一日7回も運ぶのは 難儀な仕事であった。
 
(並の大きさの屋根を葺くには、根本から90p上を1、8メートルの縄で束ねたカヤが700束は必要であったというから並大抵の量ではない)

    各集落のカヤ場

集落名 カ   ヤ   場   名
上石黒  蛇岩の下の入山地名七尾
下石黒  トマリヤマ
落 合  セギノイリ
居 谷  集落の北側の山(通称カヤバ)
板 畑  ミヤシキムキ→ザザラ〔タケ東上〕 城館山の手前の斜面
 アライムキ→黒姫山中腹
 ※参考→画像図示
 マツノソト→ヤブツ〔松沢川の東側山の裏〔バス停への道沿い〕
寄 合  セダヤマ〔野仙〕
大 野  トマリヤマ

資料→カヤ落とし
資料→高柳町大野調査報告 法政大学1975(昭和50年



     道普請

 昔の道は現在では想像のできないほどの維持管理に労力がかかった。どこの集落でも、道普請は春夏秋の3回にわたって行われた。現在も年3回の道普請は行われているが、作業の内容は比べものにならないくらい多かった。(※現在では過疎と老齢化により一層大変な作業となっているが・・・)
集落と集落をつなぐ道も村道もそのほとんどが斜面に作られた道であった。昭和の25年以前には、その主要道路にも砂利など入ってはいなかった。梅雨や秋雨の時季になると道という道は泥田のようになった。

春の山道普請での休憩

その上、地滑り地帯にある石黒は至る所で土砂崩れによる道の損壊が発生した。作場への農道の道普請はその道を使用する耕作者で山仕事が始まる前に行わなければならなかった。あちこちに小さな棚田を持った家が多く山道普請も大変な労力を要した。とくに、春は山の斜面の土砂や木が雪崩とともに押し流されて道をふさぐことなど毎年のことであった。
資料→昔の道普請


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