毛綱について

■なぜ毛綱を製ったか
 平成18年11月中旬に、新潟県西部に調査に寄せて戴きました。いくつもの発見がありましたが、たとえば、ご本山に行かれたときに毛綱を拝見したことがあると思います。高廊下に太い巻綱がガラスケースに収められてあります。
 毛綱については、普通の縄では切れて曳くことができなかった、あるいは立たなかった大材を曳くために用いたとされています。女性の毛髪で製った綱は強いから、それなら実用になるだろうと皆で毛綱を寄進したといいます。明治期再建では53本も寄進されたと記録があります。ほとんどは富山県、新潟県、山形県から寄進されております。
 大きな材木を曳くのに毛綱を使ったとしても、そこにはいくつかの疑問があります。毛綱は本山だけで使ったのでしょうか。たとえば戦争で焼ける前の名古屋別院の建物については、文政あるいは元禄に建てられた御坊の御堂建立には毛綱は使わなかったのでしょうか。大阪の難波御堂では毛綱を使った記録があります。そうすると、毛綱は本山ではどのように使うのか、地方の御坊(今の別院)では普通に使っていたのか。そのような疑問です。
 また、真宗だけが使うのか。真宗門徒は信仰が強いから女性が皆寄進したと言われますが、調査してみるとそうでもないようです。静岡県の禅宗寺院の建立に毛綱の使用例があり、そのお寺に今も展示されているそうです。そうすると、髪の毛で作った綱は強いという伝承はいつからあるのか。どこで使い始められ、本山ではどうして使うことになるのかと疑問は広がります。当初から両堂造営のために毛綱を調進するということがあったのかという問題です。
 最初に本山の建築に毛綱を寄進したのは新潟の三条御坊(今の三条別院)配下のご門徒です。なぜ毛綱かというと、貧乏で、ことに昔は女性は財産を持ちませんでしたから、自分の自由になる金銭がない事情があったのでしょう。初めての再建である天明8(1788)年焼失、寛政10(1798)年再建成就の時の民間側記録(『金剛一統志』)に見えます。
 ある女性が寄進をしようと思うのだけれども何も持たない。そこで髪の毛を切って三条御坊に持参したのです。どう言ったと思いますか。綱にして欲しいと持参したのではありませんでした。寄進できるものがないから、せめてこの髪の毛を売って代金を懇志として欲しいと言ったのです。カツラの材料として毛髪が京都では売れたのです。京都には生毛でカツラを製っているところがありました。今の松原通りの五条の橋を東に越えた辺りに店が敗戦後まであったそうです。新潟の三条は大阪との交易が盛んでありましたので、大阪あるいは京都で生毛を売れば幾らかのお金になるだろうと女性が寄進されたのです。
   それはいい考えだと他の女性たちも毛髪を三条御坊に寄せて、だいたい六貫目といいますから、1貫4キロ弱として24キロくらいが集まりました。売れる量には限りがあることから、毛髪の寄進は止めなさいとなります。本山が必要としていないものを寄進しないようにという言い方をしたようです。ところで、すでに集まった分をどうするかについて、仕方がないので寄進者の意向に沿って本山に持って行ったといいます。そうしたら、本山ではご門主を初め非常にお喜びになったということです。つまり、それぞれが分相応の寄進をすればいいのであるから、髪の毛の寄進は決して迷惑ではないとの対応をしたのです。
 しかし、本山でもこの髪をどうするかということになり、せっかく貧困な女性から寄進して戴いたものを、売ってお金に換えるのは宜しくないのではないかとなるのです。それよりは、毛髪を有効に使う手だてはないのかとして、これは大材を曳く綱に仕立てるという方法があるということを言い出したとされます。つまり、毛綱というのはおそらく各地にそれ以前からあったことに倣ったのです。毛綱を製る慣行が国内のどこかにあったのでしょう。毛綱に仕立てるとよいという話になって、本山からその髪の毛を三条に持ち帰ったというのです。そして、毛綱にするからと触れて改めて寄進を募ったところ、山ほども集まったという具合に記されているのです。

■毛綱の製り方
 毛綱にする髪の毛の実物を見たことがありますか。出来上がったものは本山に展示されていますが、新潟県の新井別院に寄進毛髪が保存されています。それはなぜかといいますと、毛綱のための毛髪の寄進を依頼したところ、新潟県西南部の富山県寄りの地域、および長野県下に至る村々から多くが集まりました。それで毛綱を製ったのでしたが、製作後に遅れて寄進した人があったのです。当然、そういう場合がありましょう。それで、これは遅れたけれども、せっかくの寄進だから大切に保管しましょうととっておいた。その実物が残っているのです。それを調査させて戴きました。19歳の女性の髪の毛でありましたが、長さは60センチでした。当時は、どこの人も縄を綯えたことと思います。縄はワラで製りますから、ワラの長さほどの髪の毛があれば、同じようにして毛綱が製れるわけです。
   毛綱はこれまでどう製るのかよくわかっていませんでした。麻と一緒に撚るといわれるのですが、まず麻縄を製ってそこに髪の毛を撚り合わせるのか、それとも麻で芯を製ってそれに髪の毛を巻きつけていくのか。あるいは逆に髪の毛を芯にして麻を巻いてくのか。あるいは苧といわれる茶色の麻紐に髪の毛を撚り合わせるのか。全然わかっていなかったのです。本山に実物はあるけれど、解体してどのように製ってあるかを確かめた例はありません。本山の倉庫には、高廊下に展示されているもの以外に現在も十何本残っています。けれども、どういう構造になっているのかは従来調査していません。  ところが、あれはワラ縄を製るのと同じだったのです。ワラ縄の要領で麻の紐と髪の毛とを撚り合わせていくのです。そして、撚り上った縄をまた3本とか5本とか、もう一度大きく撚り合わせ、周りが18センチから20センチもあるような大縄に仕立てていくのでした。神社の太いシメ縄を製る方法も同じです。どこの村でも誰でもできるもので、特別な技術ではないことがわかってきました。
   したがって、大きな材木を曳く時に毛綱を製ることがあったことはわかりますが、従来は、毛綱は本山では柱を立てる立柱式で用いたのではないかといわれてきました。儀式に際して、ご門徒女性からの髪の毛で製って貰った綱であることを特に見せつけて、そうした強い信仰によって成り立っているのだと主張する象徴的なものではないかとされていたのです。ところがそうではないとわかりました。毛綱は、そもそもどこの地でも製れる技術と伝統があり、各地に大きな仏堂・御堂がありましたから、そこで大材を曳く時には毛綱を使っていたのでしょう。現に、これまで本山で両堂再建資料の展覧会をした際に、新井別院所蔵の「毛綱寄進帳」を借りて展示したことがあるのです。これは、帳面を調べると、実は東本願寺のためではなく、明治10年代に落雷で焼失した新井御坊を再建するために髪の毛を寄進した人びとの名を記す帳面でした。そのように、地方では毛綱寄進はもともと行われてきたことのように思われます。それを、本山が建て直しをするときには、よりいっそう太めのものや長めのものを製って寄進したということかと思います。
   そしてまた、実用として使われています。先日調査した地方では、山中の神社境内にあった太い欅材を伐って日本海の港まで曳き出しています。谷を越え山の中腹を通って本願寺用材を曳いたのです。谷沿いに平野まで行けばいいのに、一度山の中腹まで曳き上げてもいるのです。何でこんな無理をしたのかと尋ねました。当時は谷に沿った道はなかったからというのです。今は県道が通っているけれども昔は道はなく、谷を越え山の中腹を通る一本道があるだけだったのです。だからいやでも、その道に沿いながら進まざるを得なかったということでした。谷から約200メートルほども曳き上げるのです。その時に、普通の綱ではだめだったから毛綱を使ったと地元では伝えています。そのように、地元で使った伝承がそのまま本山に伝えられて来るということがよくわかります。今のところ、本山での工事のどの行程に毛綱を使ったかは未詳です。

「衆縁の募、斧斤の力を尋ねる-真宗本廟造営の歴史から‐
        木場 明志 氏 (2006年11月12日 信道講座)

 http://www.ohigashi.net/sindoukouza0611.htm