上石黒の共同カヤ場は、じゃ岩の下方にある入山の「七尾」というところにありました。〔後年、近いところに茅場を変更〕毎年、11月の半ばの降雪前に村中でカヤ刈をしました。
その頃になると、カヤの茎はかたく、歯の厚い鎌で叩くようにして刈り取ったものでした。刈り取ったカヤは束ね、それらを集めてカヤマルを作りました。
カヤマルは雪崩の心配のない尾根に立てました。カヤマルの芯には数束を三箇所ほど縄で縛って作ります。その周りに刈り取ったカヤの束を立てかけて、何度か縄で固く絞めて、カヤの先の方もまとめて縛り、さらにちょんまげのように曲げて結わえました。こうしておくと雨水の進入を防ぐことが出来るのだそうです。こうして、毎年、数個のカヤマルにまとめました。
そして、翌年の3月、雪が降り止った頃に村の屈強の男の人たちが出かけていってカヤマルをそのまま、押し倒して結わえた穂先を前にして雪の上をすべり落としました。
私たちは下の方で眺めていたものですが、カヤマルは雪の上を面白いようによくすべってちょうど良い場所に落ちてきました。もちろん、落す人の熟練の勘もあってのことと思います。この仕事を私たちは「カヤオトシ」と呼んでいました。
落したカヤは風通しのよいところに立てて乾かしました。そして、ころあいを見て、その年にカヤをもらった家まで村中で背負って運びました。
男の人は、一度に12束も背負う人もいましたが、女の人は5、6束くらいが普通でした。上石黒では一軒何回と決められていました。その日に運びきれなく残った回数は、後日朝早くヤブが固いうちに運びました。これを上石黒では『茶前ガヤ』と呼んだものです。
長いカヤを横にして背負い、4キロメートルもの曲がりくねった雪道を運ぶのは本当に大変な仕事でした。
今、考えると昔は、こうした助け合いの場面は暮らしの中に沢山あったと思います。それだけに、村中が助け合いの心でまとまっていました。
その頃に比べ、今では、便利な世の中にはなりましたがこのような場面がなくなったばかりか、過疎による高齢化が進み村は衰退の一途をたどり淋しい限りに思います。
田 辺 愛 (石黒在住)
|