尾神嶽雪崩事故

 東本願寺御影堂と阿弥陀堂は、慶長7(1602)年徳川家康から土地の寄進を受け、現在の烏丸六条に建立されてから4度の焼失と5度におよぶ再建を繰り返している。特に元治元(1864)年蛤御門(はまぐりごもん)の変による4度目の焼失後の両堂再建は、明治維新の激動下、神仏分離令の発布や、各地の廃仏毀釈の動きもあり、厳しい状況での大事業となった。
 両堂の再建には大量の用材が必要となった。しかし、用材の運搬にともなう事故も後を絶たず、明治12(1879)年再建の「発示」から、明治22(1889)年の10年間に、死者105人、負傷者292人がでている。
尾神嶽 そのなかでも一番大きな事故は、明治16(1883)年3月越後国中頸城郡尾神嶽で起こった殉難死事故であった。3月12日朝方、欅の巨木を46ケ村から大動員された2000余の門徒衆が3m余積もった雪をかんじき(履物)で踏みしめながら運搬していた。
(※このケヤキは石黒の隣村、嶺村の神社のケヤキであったと伝えられる。しかし、上野實英著の「いのちいしずえ」によると川谷村で切られたケヤキであるという説が有力であると記されている−補説編集会)午後2時ごろ、尾神嶽の中腹「吹切」を通った際に、突然幅約200m、長さ100m以上の大雪崩が起こった。逃げ遅れて埋まった人たちを、近くの村人が救助したが、不幸なことに重傷者約50人、27名が殉難死を遂げた。この27名のうち、16歳以下が16名、2歳から4歳の幼児が4名と記録されており、家族総出で運搬に携わっていたことがわかる。
〔※石黒の隣村であった嶺村からも3名の犠牲者がでた−補説編集会その後、その巨木は御影堂上層屋根の隅木4本のうちの1本として使われ、発令から16年を経た、明治28(1895)年に両堂の落成となった。

 実際に尾神嶽での巨木の運搬に使用された大橇(そり)が、柿崎町岩手集落(現上越市柿崎区)の円田神社から発見された。
刈羽郡石黒村(現柏崎市)の田辺重栄と田辺重五郎両氏の寄付で作られた、歴史の生き証人のようなこの大橇は、高田教区坊守会の尽力で、昭和36年親鸞聖人700回御遠忌の記念に本山に寄付され、現在は本山で展示されている。
 高田別院をはじめ、中頸城郡北部の寺院や門徒たちは、27名の殉難死に報いるため、熱意ある働きかけをして、事故現場近くの嶽の中腹に、「報尽為期(ほうじんいご)」の碑を建立した。「報尽」は仏恩報尽の意であり、「為期」は「期(ご)と為す」で、期待される、願われるの意であり、この碑を縁として殉難された人々を思い、真の念仏者となってほしいと仏から願われているという意味でこの碑の名が選ばれたものと思われる。その大きさは、縦133cm、横73cm、厚さ40cmのどっしりとしたもので、高田平野を一望できる場所に建っている。
  昭和31(1956)年にこの碑を再発見し、世に尾神嶽殉難を伝えた、糸魚川の真宗史学者佐藤扶桑(ふそう)師は、尋ねる者も少なくなり、雑草が生い茂った碑を前にして「殉難死からわずか73年、殉難の事蹟が忘れ去られた所以が諾(うなず)かれた。それは何も求めなかった為めである。この頃は頻(しき)りに求める。飽くまでその責任を追求し、補償を要求する。しかしこの人達はその当然のことを求めない。求める必要のない程に満たされたものを持っていたのである。この人達には死という事も、さほどに悲しみ騒ぐべきものではなかった。私は唯一筋に安養に向うものの姿を想念する。稀にここを訪ね詣づる人があるならば、其人は必ず還相廻向の生身の菩薩に値遇した感に打たれ、不思議な説法を聞くであろう。」と書いている。
 その後、地域の人々の手によって報尽為期の碑は護持されるとともに、両堂再建に命をかけた人々の信仰を語り継いでいる。この碑に実際に足を運ぶとき、当時の人々の苦労に思いを馳せ、そこから生きる足元を見つめる機会となることだろう。
             
 「東本願寺 越後三条区ねっと」 より
              〔http://www.gobosama.net/shinran



          尾神嶽の殉難死事故

        大  橇
新潟県刈羽郡石黒村、田辺重栄・重五郎両氏の寄進。事故当時に使用されていたこの大橇は、1961年に本山へ寄付された
尾神嶽報尽碑
 
越後国(新潟県)は、宗祖親鸞聖人の配流の地であり、早くから真宗教団の発展した地でした。
 蓮如上人も越後の地に足を運ばれ、江戸時代に入っても一六八五(貞享二)年に新井掛所(別 院)、一七三三(享保十八)年に高田掛所(別院)が創設されるなど、越後地方は全国でも有数の信心篤い土地といえるでしょう。
 明治の再建の際にも、多数の献木や普請手伝いがありました。巨木の運搬には数十カ村から数千人の人びとが参加しました。中には本願寺派や他宗派の信徒の方々も含まれていたといいます。
 一八八三(明治十六)年三月五日、嶺村(現・新潟県東頸城郡大島村)から、三本の巨木が伐り出されました。そのうちもっとも大きな一本は、御影堂正面 矢来差(大虹梁)にも使用できるかというほどの大木で、二千人余ともいわれる人びとが手伝いに加わりました。人びとは大木を運搬するため、約三メートルにも及ぶ積雪を大勢で踏み固めて道を作ったといわれています。
 三月十二日、その日は朝早くから大勢の人が集まり、運搬にかかりました。木遣り師と呼ばれる人が、みんなの力をひとつに合わせるため、木遣り唄を歌います。大橇に載せられた大木は、ゆっくりと動き出していきました。
 午後二時ごろのことと伝えられています。大橇を引く人びとが、「吹切」と呼ばれる尾神嶽の中腹辺りに差し掛かったその時、突然、幅約200m、長さ100m以上にわたって、轟音とともに大雪崩が起きました。体の丈夫な人たちは何とか自力で逃げ出せたのですが、お年寄りや女性、子どもたちなどが積雪に足を取られて逃げ遅れ、巻き込まれてしまいました。
 近隣の村々ではこの事故を聞きつけるや、人びとが駆けつけて救助作業を始めました。雪を掘り起こし、助け出した人びとの体を、焚き火をおこして暖めました。しかし、一瞬の間に即死された方も多く、二十七名の死者、五十名余の重傷者を出す大惨事となったのです。この事故は、両堂再建に関わる事故の中で、最大の被害を出したものでした。
 本山ではこの事故の知らせを聞き、木揚場や別院を通じて調査を行いました。地元寺院からは事故を報じた上申書が出され、時の再建局管理・大谷勝尊から法名が授けられ、遺族に手当金が給付されました。
 一八八七(明治二十)年九月、殉難者の顕彰のため、地元関係者の熱意と本山からの支援などにより、「報尽碑」が建立されました。
 その後、この報尽碑の存在は年月とともに忘れ去られていましたが、一九五六(昭和三十一)年、地元有志による懸命の調査によって、草木に埋もれていた碑が発見されました。以降、地元の人びとによって碑は護持され、両堂再建に賭けた人びとの信仰心を今に伝えています。
 「わたしは今年も雪が消えたら、この碑の前に跪き、施身聞偈の菩薩の説法を聞きたいと思う」。報尽碑発見に尽力された故・佐藤扶桑氏の言葉です。今も殉難の地に立つ碑は、遠く離れた京都に並び立つ両堂を、静かに見つめ続けているかのようです。
(つづく)
 (監修=大谷大学教授 木場明志) 
同朋新聞2001年9月号より

         http://higashihonganji.jp/kiseki/12/index.html