下石黒女人講中で読まれた経文と読み下し文       下石黒公民館所蔵
 
 
 
 
 
 そもそも、世々の宣徳相承血脈
 する本廟相続の本意と
 いうは、あながちに栄華
 栄耀をこの身一生を
 心安く過ごす
 ところの名利勝利の
 義にはあらず、只、諸国
 門葉をしてあまねく
 信心決定の行者となさ
 しめ一人たりとも他力
 本願にもとつづき信心を
 とりて念仏申さん輩も
 繁昌せしむるようにも
 あれかしと思うはかり
 よりは更にあるべからず
 候、然れば門下の輩
 一同に念仏得堅固の
 思いより報謝の経営
 油断あるべからず
  候、殊に外には
 王法ありて一流の法義
 しばらくもとどこうり
 なく弘通せしむることは
 まったく以て、古よりまれなる

 
   
 
 

 
 
 昇平の時にあい多年の
 治世によるかゆほと
 国恩のかたじけなき
 ことをいよいよ仰せらるべき
 ことなり是によりて先ず
 王法をもととし
 仁義を先として国に
 あらば守護方所あらば
 地頭方にむきてかぎり
 ある年貢取当をつぶ
 さに沙汰をいたしいよいよ
 公事を専らにして疎略
 のぎゆめゆめあるべからず
 しかれば、一所の坊主分たる
 人はあいかまえてかまえて
 かたく此の成敗をくわえ又
 宗意の教示においては
 猶更、秘儀の次第是なき
 よう、よくよく心うべし
 さて、此のうえには在々所々に
 
 
 


 
 
  



 ありて毎月の会合を
 いたすというとも念仏
 修行の本意をたがう
 べからず、相互に信不信
 沙汰し若は僻案の族も
 是あらば相ともにさとし
 或は、よからざるふるまいも
 そうらわば、すみやかに
 改悔懺悔をいたすべし
 然る時は来集の人々の
 なかにもまことに心あらむ
 輩は其の廻心懺悔を
 ききてきょうとも思いて
 同じく日頃の悪心を
 ひるがえし善心におも
 むき又は、不法懈怠の
 人を先非を悔い悔いて信心
 決定しひとしく一味の
 安心に住すべきなり、されば
 会合の座中においては
 かならずかならず信心沙汰を
 いたすぺきこと肝要
 
 
 
 
 
 
 




 かならずかならず信心沙汰と
 いたすべきこと肝要 
 なり、是即ち真宗繁昌の
 根元是は自信教人信の
 義にも相応し自行
 化他の道理もかなう
 べきものなりされば
 かように心得その上には
 極悪最下の我が人を
 ふかくあわれみおしまず 
 弥陀証誓の広大なる
 ことをよろこび奉りて
 ますます、知恩報徳の
 こころざしをはげまし
 当流真実の安心の
 次第をすみやかに
 決定すべきものなり
 夫れ、開山聖人のおしえたまう
 正義というは余の義には
 あらず弥陀弘願の
 他力の信心をもて肝要と
 ならうところにさぶらう 
 然れば、知恵才覚も
 いらず男女貴賤を論ぜず

 
 
 
  
 しかれば、知恵才覚も
 いらず、男女貴賤を論せず
 我が身は諸仏の悲願に
 もれたるところのあさ
 ましき造悪不善の
 凡夫なれば出離
 の縁とながく成仏すべき
 たよりは尽きはてたる
 衆生なれどもかかる
 機を本とすくいまし
 ますすは願力の不思議
 なりとしりて露塵
 ばかりも請願をうた
 がう心をまじえず一念
 帰命し奉ればに来は
 すなわち見そなわし
 ましまして、遍照の光明の
 なかにその行者を摂取
 して捨てたまわず无始
 曠劫よりこのかたつくりと
 つくる悪行煩悩を
 一時に消滅して無上
 涅槃を証すべき身とは
 
 
 
 


 

 なしたまへり此の上に
 我往生は仏の方より
 治定せしめ給うなりと
 しるべしされば宿善
 開発にもよほされて
 常役常流の凡夫
 なれども今さいわいに
 超世の悲願にあい万劫
 にも得がたき信心をとりて
 やすく浄土に往生すべき
 ことはおほろけの円とは
 思うべからず、ひとえに
 多生の強縁のしから
 しむるところとよろこび
 思いていささかもおのが
 はからいをましえず
 いよいよ願力の不可思議
 なることを信じ奉り唯
 何の中よりも如来大悲の
 恩徳の深遠なることを
  

 
 
  



 常にかたじけなく存じ
 奉りて行住座臥を
 えらばず仏恩報謝の
 称名念仏せしむべき
 計なり、しかればかくの
 ごとく心得たらむ人に
 おいては如来聖人の
 真意にも相かない当流
 他力の大信心を獲得し
 たる平生業成の念仏の
 行者はなつくべき
 ものなり、あなかしこ、あなかしこ
 文政八年釋達如〔花押〕
 七月二十七日
    越後国刈羽郡下石黒
    本山   二十八日講中
 達如上人について  下石黒女人講の時に掲げた親鸞聖人の御影と収納箱
釋達如〔しゃくたつにょ〕   達如上人

安永9年〔1780〕第19代法主 乗如の子として誕生。
寛政4年(1792年)2月19日得度。同年2月22日 父・乗如の示寂にともない、第20代法主を継承。
寛政10年〔1798〕「天明の京都大火」-天明8年に焼失した東本願寺・本堂が落成。
文政6年(1823年)11月、本堂、再び焼失。
文政8年(1825年)本堂・再建を発願。
天保6年(1835年)3月落成。
弘化3年(1846年)次男・嚴如(大谷光勝)に法主を委譲、渉成園に退隠。

慶応元年11月4日(1865年12月21日[3])86歳にて示寂。
     
 文責 編集会 大橋寿一郎  関連資料→ 〇古文書-御献上縮   〇衣食住-講