昔の道普請
                           田辺雄司
 私たちが小さい子どもの頃(昭和の初め)の村道は、牛や馬が荷物をつけて通ってもようやく人が、よけることのできるほどの道幅しかありませんでした。その上、牛や馬は、ほとんど同じ歩幅で歩くので道に足跡の凹みができてそこに水がたまります。すると、道にたくさんの水たまりができました。人はその水たまりをよけて歩かなければなりませんでした。
 所々に水はけの溝が切ってありましたが、秋などは牛馬の通りがはげしくて道がまるで泥田のようになりました。坂道がほとんどでしたから滑りやすく、登下校の子供が転ぶと着物が泥だらけになってしまうほどでした。
 
 早春の雨の居谷集落

 雪が消えて田畑の仕事が始まる前に春の道普請があり、落ち葉や枯れ木などを掃除したり雪のために崩れた土を片付けたりしました。また、前の年にできた凹みには砂岩を背負って運び砕いて平らにしました。しかし、やはり、雨が降ると泥の道になりました。(集落によっては、この砂岩を45p角ほどの平板にしたものを村の小路の真ん中に飛び石のように敷いてあるところもありました)
 お盆の月になると7日の午前は、先祖の霊をお迎えするためとお盆客を迎えるために村道の草刈りをするのが年中行事でした。
 お盆が終わり、稲刈りが始まる前には「人がけ」と言って各家から2人ずつ鎌や鍬を持って集まり山道を主とした道普請をしました。女衆は主に草刈り、男衆は鍬で坂道に階段を作ったり、壊れた道の修復をしたりして、稲運びに人馬とも楽に通れるように整備しました。とくに土橋などは丸太が朽ちていないか、牛馬が通っても大丈夫かと念入りに調べて管理を怠りませんでしたので怪我もなく秋仕事を終えることができました。
 また、私の集落は隣村に通じる道路が何度か地滑りで通行不可能になりましたが、忙しい時期であっても村中総出で仮の道路を作り学校や隣村と行き来できるようにしました。地滑りは、現在の地滑り防止工事が行われるまでは、幾度となく繰り返されて村が孤立することも珍しいことではありませんでした。時代とともに道が町道や県道に格付けされると復旧工事も町や県で行ってくれるようになりましたが、それまでは道路の管理保全はほとんど村の住民にゆだねられていたのでした。
 昔の人たちはこのように骨身を惜しむということなく自分たちの力で、沢山の道を大切に守ってきたことに頭が下がる思いです。