冬の道つけ
                       田辺雄司
 昔から冬の道つけは、自分の家の玄関から自分の宅地と所有地内の道をつけることが原則でした。それで、おのずと村内の道は通じるようになっていました。
 しかし道つけの距離は家によって差があり、自分の土地の間に他人の土地が入っている人は距離も長くなり気の毒でした。また、分校までの道つけと昇降口前の除雪も村中が一軒ずつ順番におこなっていました。こちらの方も3、4寸〔9〜12cm〕降っても、3尺〔約1m〕降っても1人で行い、自然現象とはいえ不公平な感じがしたものです。自分の番が終わると札を次の家に渡すのでした。
 それから、冬の道ふみが必要なのは居谷から落合の間でした。昔は石黒から毎日郵便屋さんが配達に来るのでそれを頼りにしていました。郵便屋さんが来たから石黒まで行って来ようというとうようなことで郵便屋さんを当てにしていたのでした。
 私たちが高等科1、2年の頃は冬、登校するときには、高等科の男子がカンジキで道つけをして女子はあとから付いてくるのが常でした。村境の峠に上がると男子は皆スキーで落合集落まで乗り降りました。女子はカンジキでしたが割合楽に降りられたようでした。
 当時は、冬の間は板畑、居谷、寄合の高等科の生徒は学校に泊まって自炊していました。女子は3集落合わせても5人程度でしたが親類の家や上石黒の板屋旅館に泊まっていました。土曜日に帰宅するときには男子が、代わる代わる先頭になって雪をこぎわけて坂を上りました。
 終戦後は、隣の集落までは集落ごとに道つけをすることになったのでしたが、男衆は皆出稼ぎに行くので残った女衆は大変でした。
 今でも忘れないのは、昭和38年の豪雪の冬のことです。出稼ぎ先から雪堀に帰る人も沢山いたほどの大雪の年でした。
 その日は男衆1人に女衆3人で、落合集落までの道つけに朝の8時頃出発したのでしたが昼を過ぎても帰ってきません。何しろ、前の晩に4尺余の降雪があり、朝になっても先が見えないほど烈しく雪が降っていました。
 私たちも心配して迎えに出ましたが朝から積もった雪がすでに2尺も積もっていました。頂上を少し下ったところでその人たちと出会い、持って行った藁を燃やして暖をとって持参した握り飯を出しましたが、疲れが烈しく口もきかれないような有様でした。聞けば、落合に着いたのは午後の3時過ぎだったとのことでした。
昭和38年豪雪
 それでもどうにか少しは元気をとりもどして家に向けて歩き出しましたが家にたどり着いたのは暗くなる頃でした。
 その後、荒天の道つけには十分気をつけるようにしました。その年の積雪は6m近かったでしょう。その後もそのような豪雪は何度がありましたが、2度とあのようなことのないように気をつけました。