大雪で出稼ぎ先から除雪に帰省したときのこと
                            中村長平
 昭和43年の冬は大変な豪雪で岡野町で3m80pの積雪でしたから、板畑では最高積雪が5mに近い積雪だったと思います。
 私は、その時東京に出稼ぎして、焼き芋屋をして働いていました。 その年の1月10日に三女が生まれという便りがあり、喜んでおりましたところ、2月に入って豪雪となり、妻が産後で除雪ができないため急きょ一時帰省をしたのでした。
 その頃は、冬でもバスは通っていたのでしたが、一日2往復しかなく、しかも、バスは上石黒が終点ですから、その先の4キロは歩かなければならなかったのでした。
昭和43年豪雪(下石黒)
また、その頃は除雪車も午前1回しか出動しないので夕方までには数十センチの新雪がつもります。
 そんなわけで、私は岡野町よりタクシーで家に向かいましたが、石黒へ近づくにつれて車道の雪も増して、上石黒から大野集落に登って行くにつれてさらに雪の量は多くなってきました。
 タクシーも雪に車体を擦るような状態となり、ついに大野の屋号「しょうみ」の前で、運転手さんに「申し訳ないが、この先は行けないので歩いて行ってください」と言われました。運転手さんは、私が下車したあとは重量が軽くなりいよいよ走りにくいと心配されたようでした。
 私は、幸いゴム長靴も用意し来ましたので、そこでタクシーを降りて、歩くことにしました。道には20〜30pほどの雪がありましたが荷物を背負って、約2キロの道を1時間ほどかかってようやく家にたどり着きました。
 家の屋根を見上げるとなんと1m50p以上の雪が積もっていました。その日はもう夕方でしたので、翌日に村の女衆2人手伝いに頼んで雪下ろしをしました。
 変な話ですが、私は、その時、女衆の雪下ろしの作業を見てその手際の良さに驚きました。昔は、雪下ろしは主に男の仕事でしたから女衆の雪掘りは手伝い程度に思っておったからです。
 その頃は、経済の高度成長にともなって出稼ぎが盛んになり男衆のほとんどは毎年、冬は出稼ぎに行って家は女衆に任せた時代でした。
  この頃は毎年のように豪雪が続き、残された女衆は子どもまで動員して毎日雪と戦ってくらしたのでした。その苦労を知らなかったわけではありませんが、その時の昔とうって変わった女衆の働きぶりをみて、女衆の長年の苦労を改めて痛感したのでした。