屋根葺き職の思い出
                              矢澤清吉
 私は、大正13年(1924)生まれで87才になります。
  石黒村の寄合集落に生まれ高等科2年を終えるとすぐに、茅葺き屋職人の田辺梅吉さん(上石黒の屋号・せんなびろう)に弟子入りしました。弟子入りと言いましても大工とは異なり年季があるわけではなく、親方が仕事に出る時に一緒について回って仕事を覚えるのでした。
 茅葺き屋職人の仕事は大工のように差し金、墨坪を使った仕事ではないために、初めから現場での作業を通して身につけるほかなく、「しっかりと見て技を盗み取れ」と親方によく言われたものでした。

  茅葺き屋がほとんどであった昭和32年頃の村(下石黒)
 当時は村の家の全部が茅葺き屋であると言ってよいほどでしたから、春は3月ごろ、まだ残雪が家の周りに数mもある内から始まり晩秋の霰のふるころまで仕事がありました。
 また、仕事は石黒地区にとどまらず現在の上越市藤尾集落や竹平集落にも1ヶ月余も仕事に行ったことがありました。
 ちなみに、当時の茅葺き職人の仕事は村内であっても頼まれた家に泊まり込みで行うことが石黒では慣例でありました。言うまでもなく三食付きで、朝は早くから夕方は暗くなるまで仕事をしたものでした。とくに、弟子は朝食前に茅葺き用具のハサミなどを研いだものでした。
 当時(昭和11年ころ)の一人前の職人の日当は1円25銭でしたが、弟子は15銭でした。そのころ手拭いが1本7銭ほどでしたからほんの小遣い程度の額でした。
 職人は常時に2〜3人で、時には5〜6人で仕事をしましたが、新規に葺き替えるときには10人ほどの職人で行いました。このような場合はその家には泊まりきれないので親類の家に分かれて寝泊まりをするのでした。(食事等のまかないは施主の家)
落合集落での屋根葺き(昭和20年代)
 屋根や職人の年季明け(とくに年季というものはなかったが)3〜7年でしたが私は2年後の20才の時に一人前として認めてもらい
ました。

 ちょうどその頃に、シナ事変が起こり日中戦争が始まり、数年後の昭和19年の冬に私にも召集令状が来ました。
 もともと、すでに徴兵検査を終え現役兵待機組であったので驚きはしませんでしたが、その年は歴史的な大豪雪で配達人が上石黒にあった村役場まで行けず、手前の集落にあった私の家に直接届けたことに驚きました。当時、寄合から、役場のあった上石黒の道は城山の尾根づたいにあり、足もすくむほどの難所が数カ所あったのでした。
 その日の夕方もらった令状は、翌朝出発するようにとの内容であり、翌朝村の人に旗を振って送ってもらい釜坂峠を越えて柏崎に一泊して千葉県の市川にあった砲兵隊に仮入隊し歩兵訓練を受けました。
 そこで2週間ほど歩兵訓練を受けて、博多港から韓国の釜山に行きました。そこから列車で中支(南京)に行き、揚子江を渡る予定でしたが、先発隊2000人が揚子江上でB29の攻撃をうけて全滅したとのことで、急遽、行き先が北支の西南に変更されました。
 西南では八路軍による鉄道破壊が頻繁におこるため私たちは1分遣隊(10〜12人)で10q区間を夜間警備にあたりました。
 そして、翌年20年8月に終戦となり、私は北支済南(チイナン)から最も近い青島(チントウ)港から乗船し昭和21年4月半ばに佐世保に帰還しました。
 当時の日本の帰還兵の皆がそうであったと思いますが、祖国日本の土を踏んでも、敗戦帰還兵でありますので何か肩身の狭い思いがしたものでした。
 石黒の自宅に着いたのは、若葉かおる4月下旬でしたが、夫に先立たれた母は生きて帰ってきたことを、とても喜んでくれました。
 私は村に帰るとすぐに屋根屋の仕事を始めました。 
 終戦直後数年は疎開者や戦地からの引き上げ者で村には沢山の若者がおりましたから、私は数人の若者を弟子にすることができました。
 村の家はすべて農家ですから農繁期に屋根の葺き替えを頼む人はいません。お蔭で私は農業も出来るので屋根屋は有り難い仕事でした。
 また、昔から村にはカヤ頼母子講があり、毎年各集落で1〜2軒の屋根の葺き替えが行われていました。  
 その他、言葉の意味は同じのですが、「無尽講-むじんこう」と呼ばれる5〜6軒が一組となって行うカヤ頼母子講もありました。
 こうした講による屋根葺き替えの他にサイコと呼ばれる屋根の補修作業は夏期をとおしてありました。
 希には新築の家の屋根葺きもありましたが、こちらは突貫作業で4〜5日で終了し、屋根葺きが終わるとコマイの上に粗壁(カエシ壁と呼んだ)を塗り上棟式が行われるのでした。
         
寄合松尾神社葺き替えを終えて
 また、時には神社の屋根の葺き替えもありましたが、社殿の屋根は反りのある屋根で少し難しく手間取る仕事でした。
 上の写真は、私の村寄合の松尾神社の葺き替えをした折に記念に撮った写真です。昭和36年(1961)のことであったと記憶しています。
 そして、昭和30年(1955)代後半に入ると、過疎化が進み村の戸数が年々減少したためカヤ頼母子講も難しくなり、屋根をトタンで覆う家が増えて茅葺き屋は、ほとんど姿を消してしまいました。
 それと共に、私たちの仕事も減っていきました。私の茅葺きの仕事の最後となったのは、昭和52年(1977)の門出に、柳町が村おこしのために建てた茅葺き屋「親家」の茅葺きでした。
 その少し前から、地方の過疎化が社会問題として取り上げられて高柳町は過疎地域振興指定町となり、事業の一環として、土木関係の公共事業が次々と継続して行われました。
 私も町内の土建会社に入れてもらって、毎日のように土方仕事に明け暮れました。仕事のできない冬季の2ヶ月は失業保険の給付を受けていました。それでも多い年には出勤日数が通算年200日に達しました。今、考えてみますと過疎地域振興法は、進む過疎化を止めることはできませんでしたが村に残った私たちにはありがたい制度であったと思います。

 屋根屋職人としての50余年を振り返ってみますと、近在集落のほとんどの家の屋根葺きの仕事をさせてもらいました。また、カヤ頼母子による茅葺き作業は集落全体の協力作業でしたから大勢の方々と一緒に仕事をさせてもらいました。煤にまみれて顔まで黒くなる仕事でしたが、私には、やり甲斐を感じる仕事でありました。
 米寿を迎える今、こうしして振り返ってみますと、戦地からも無事に帰還でき、仕事では怪我もなく今日を迎えることができたことは本当に幸せのことであったと感謝の気持ちでいっぱいです。
                   (矢澤清吉・寄合在住)