学徒動員時のカテメシ(かて飯)の思い出
                           田辺雄司
 私は、石黒校を卒業してから親のお陰で柏崎工業校の電気科に入学しました。そして、近くの農家に同級生3人で下宿させてもらっていました。下宿していた農家は私たちが小さい頃に柏崎に移り住み苦労を重ねて、当時は3、4町歩もの田んぼを作っておられました。おかげで、食糧難のその頃も、まあ、腹一杯というわけにはいきませんでしたが何とかひもじい思いをすることなく過ごさせてもらっていました。朝は毎日ズスイ(雑炊)を2杯によもぎ餅2枚を食べて登校して、午前中4時間、午後は勉強より軍事教練が主でした。その後は部活を暗くなるまでやって、へとへとになって下宿に帰ったものでした。下宿の夕飯はスイトンや豆御飯で当時としてはとても恵まれた食事でした。
 ところが昭和18年1学期から、柏崎理研工場に学徒動員で引っ張られ、溶鉱炉の仕事に回されました。
水陸両用車
溶鉱炉の仕事はとくにつらいものでした。食事もひどいものでお昼のおかずは、毎日、ヒジキを塩辛く煮たもと決まっていて、残すと食堂係に怒られたものでした。
 そして、2学期になるとまもなく、今度は愛知県のトヨタ自動車会社に動員されトヨタ自動車の工場で働くことになりました。近くには動員学生寮がいく棟も立ち並んで学生が3万人も入っていたと聞きました。
 私たち何人かで水陸両用車の部品を作る工場に配属され、朝7時から夕方6時まで働きました。(
※軍の依頼によって、トヨタは中国方面防衛のための水陸両用車の開発を急がされていた
 その会社は何百人も入る大食堂での食事した。毎食、食券を一枚ずつ出しては丼(どんぶり)を受け取るのでした。最初の日の食事では、初めてなので歓迎の赤飯を出してくれたのだと思ったのですが、よく見ると違うのです。係の人に聞くと、満州で穫れコウリャンという穀物だとのことでした。食べてみるとバラバラしていて箸にかからないで落ちてしまうので、それにお湯をかけて塩をふりかけてさらさらと口に流し込むのでした。
 時々、ぶっかけ丼が出ましたが、豆の中に御飯粒が数えるほどしか入っていないどんぶり飯にジャガイモとか豆腐らしきものに粉を混ぜたドロドロしたものをかけたものでした。今ならとても食べられる代物ではなかったでしょうが、当時は食べ盛りでお腹がすいていたので夢中で食べたものでした。
 その頃、私の隣に、私たちの何倍も大きな機械を使っていた年上の女子工員がいました。その人は家から会社に通っていましたが、家が農家とのことで、ときどきサツマイモだのオニギリなどを隠してそっとくれるのでした。そのたびに「私が機械をみているから、便所にいって食べてきなさい」と言ってくれるのでした。私はそのとき便所で食べたオニギリやサツマイモの美味しかった事とその女子工員の親切を今も忘れられません。
 戦局が悪化するとともにトヨタ自動車会社も、しばしば米軍の艦載機の銃撃を受けるようになりました。工場内のサイレンは銃撃が始まってから鳴る始末で皆が近くの機械の陰に隠れるのがやっとの事でした。工場の屋根のスレートを撃ち破った銃弾が工場内の機関に当たって「カーン、カーン」という甲高い音を立てました。あちこちで「キャァー」という女子工員の悲鳴が聞こえました。
 負傷した女子工員を男子行員が次々と医務室に運び込みました。艦載機の銃撃は昼を過ぎても止まず腹が減ってフラフラになりました。仕方がないので塩をなめて水道の水を飲んで空腹をしのぎました。
 1ヶ月に一度の休みは、いつものように岡崎の町まで電車で出かけました。そして、雑炊を食べるために町の食堂の前に並ぶのでした。雑炊といっても汁に菜と大根、サツマイモなどだけで米粒の入っていないものでした。一杯では満腹にはならず何回か並んで腹をふくらませて帰ったものです。中には、飯ごうを持参してあちこちの店で雑炊を買って飯ごういっぱいに入れて帰ってくる友人もいました。そのとき、食堂で私たちの目を引くのは予科練の飛行士の昼食でした。白米の御飯をぎっしりと詰め柳製の弁当箱を風呂敷から出して雑炊を汁代わりにして食べているのでした。
 その後、私たちも飛行士のかっこよさと何より白米を腹一杯食べられるという事にひかれて、予科練を志願することを決め会社にその旨伝えて柏崎に帰り予科練を受験しました。
 1回目は難なく合格しその後の2次、3次と合格して、9月1日に第4次受験の通知がきました。友達と2人でした。試験場は滋賀県の琵琶湖近くに新しくできた大津海軍航空隊でした。
柏崎駅で最終列車に乗り、翌日兵舎に着きました。何千人という志願兵がいるのには驚きました。
 部屋は10人が一組で食事は驚くほど良いものでした。円い大きな桶のようなものの中に白米がぎっしり、それに、みそ汁におかずが2品でした。はじめに隊長が来て訓辞、その後10人で御飯おかずともに残さずに食べないと半分に減らすこと、腹が破れても全部きれいに食べること、と言い渡されました。しかし、大きな桶の中の御飯は思ったよりも多く、4杯も5杯も食べたことを憶えています。
 今にして思うと、航空隊に行った時にから、もう受験生ではなく航空隊員としての待遇であったように思います。正式な訓練こそはしませんでしたが、ボートに乗ったり、戦闘機にのったり、夜は非常呼集で2回くらいは起こされました。それも真っ暗な中で、地下足袋にゲートルを巻き制服を着なければなりません。そのために、寝る前に、一番先に身につけるものから順番に枕元に積んで置きました。
 一棟の兵舎の中には、何百人もの受験者がいるので、何かすごい光景でした。
          元大津海軍航空隊
     
(画像はアメリカ軍駐屯後昭和30年撮影)
 試験は一週間(6日間)でした。私たちは毎日、朝から白米を4、5杯食べては試験場に向かいました。不合格になった受験生は、その日のうちにオニギリ2個もらって自分の家に帰ることになっていました。毎日に生徒の数がどんどん減っていきます。私たちも不合格となると、再びトヨタにもどり豆やコウリャンを食べなければなりません。とにかく私たちには、予科練に入り白米を腹一杯食べることが目標であり希望でした。
 私たちは、それでも最終試験の前まで残りました。うわさでは最後の試験でほとんど不合格になるとのことでしたが、案の定私たちも6回目の最終試験で不合格となりオニギリを2個もらって夜汽車で柏崎の学校に戻り報告をすませてトヨタの工場に戻りました。
 工場に戻ると私に親切にしてくれた女子工員の姿が見えないので、尋ねてみると機銃掃射の弾にあたり負傷して病院に入っているとのことでした。私は、驚きましたが命に別状はないとのことでほっとしました。
 それから、再び豆やコウリャンなどのカテメシの毎日が始まり敗戦まで続いたのでした。

付記
 先日、亡父の日記帳を見つけ、ページをめくっていると私の学徒動員の頃の手紙などがはさまれていた。こんなものまで大切に保存していてくれた親父の気持ちを想うと急に胸があつくなった。
 手紙は2通あったが、その内の一通は動員先のトヨタ自動車会社が送ってきた私の勤務状況について通知であった。
 会社が、このような手紙を親元に送っていたことを今にして始めて知って驚くと共に、70年の歳月が過ぎようとしている当時をまざまざと思い出した。