チャノコの思い出
                         田辺雄司
 私が子どもの頃はどこの家でも良質の米は売って、くず米や雑穀を食べていた。米も千石通しや万石通しをくぐった不稔米や青米、虫食い米などを粉にして団子にして食べた。 
 千石や万石をくぐるのはくず米ばかりではなく、籾殻などが多少は混じっていたが、当時は質よりも量の時代であったからそのまま粉にして食べた。
 くず米を粉にするには石臼を使った。大型の石臼を使ったり、集落によっては水車を利用したり、中には発動機を使う家もあった。
ダンゴ鉢〔チャノコ鉢〕

 そうして作った粉は桶の中に横槌で叩いてガチガチになるほど固く詰め込んで、夏になっても劣化しないようにしていた。その粉にヨモギをたくさん入れて粉餅をついて食べたり、チャノコ鉢で女衆が毎晩、粉に湯を入れてこねてチャノコを作ったものだった。
 一緒にサツマイモをゆでたものや渋柿を小さく刻んでゆでたものを混ぜて時間をかけてこねて作った。十分こねたものを大人の握りこぶしほどに丸めて団子を作った。それを朝、囲炉裏で藁を燃やす中に入れて焼くのだった。焼き終わると団子がアンボウに変わるのだ。サツマイモより渋柿を入れたアンボウの方が甘くておいしかったことを憶えている。でも、噛むとどこか粕っぽい感じがしたのは籾殻などが混じっていたせいであろうか。燃やした藁灰が付着したせいであろうか。
 子どもの頃は朝飯はこのアンボウであった。同級生のなかには、昼のお弁当に持って行く人もいた。また、こねた粉で小さな団子を作りそれを味噌汁に入れたものを団子汁と呼んだが、私はこの方が好きだった。
 大勢で箱膳を前に、大きな鍋を囲んでの食事だったが、団子を作る女衆はさぞかし大変であったことと想う。
 昭和45年に高柳町が全国過疎地域振興指定町となり離村者が増えた頃、骨董屋がやってきて石臼やチャノコ鉢などを買いあさって行ったが、私はチャノコ鉢だけは祖母や母の温もりが残っているようで手放す気にはなれなかった。
 また、チャノコという言葉の由来はお茶を飲みながら食べることによるとも言われいる。