昔の食事
                           田辺雄司
 昔〔昭和のはじめ以前〕の人は、食べ物の栄養価などは現在のように考えることはほとんどなく食事をしていたのではないかと思います。
 米はできるだけ食べないようにして1俵でも多く売る方にまわして、普段はカテ飯などのまずいものを食べていたのでした。食べる米には上白と下搗〔げづき-7分搗きほど〕と書いた札〔つけ木を利用した〕を挿して別々にして保管しておきました。
 下搗きの米は普段の日に食べて、上白の白く搗いた米は冠婚葬祭時や正月、お盆、あるいは客人が来たときにだけ食べました。また、先祖の命日には小さな鍋でほんの少しだけ炊いて白いご飯を供えたものでした。その他、病人には上白でおかゆを作って食べさせました。
 このように上白のご飯はめったに食べられない有様で下搗きの米の中に必ずと言ってよいほどどこの家でもお椀に一杯の粟〔あわ〕を入れて炊くのでした。米びつと呼ぶ約2斗余り入る箱がありましたが、米びつの中には仕切りがついていて米を8割ほどの場所に残りの場所には粟を入れておくのでした。
 朝はどこの家でもアンボウ〔チャノコ・アンブ〕とか粉餅に雑炊といった食事で、子供の私たちは前の晩の残りのご飯で作った雑炊を食べて学校に行くのでした。
 ダンゴの粉は一番悪いくず米、ほこりや籾殻の混じったものを石臼で挽くので苦味が少しあったので幼児の頃には食べませんでした。しかし、秋になると渋柿を山から取ってきて夜に母や祖母が皮と種をとり除いてゆでてダンゴ〔カキアンボウと呼んだ〕の粉に混ぜて作ったダンゴは甘くておいしいものでした。
 くず米の粉は、雪が降る頃になると大臼を仕立てて一度に沢山挽くのでしたが、それまでは小さな石臼で毎晩のように子どもも手伝って翌朝食べる粉挽きをしたものでした。
 また、副食は野菜や山菜などが主で食用油などはほとんど使わずゴマや菜種などを炒ってすり鉢ですりつぶして和え物などを作りました。
 また、このころは麻の実〔油性分25%〕も炒ってすりつぶして和え物に使いました。今では麻の葉はマリファナの原料になるとして栽培が厳しく規制されていますが当時は多くの家で栽培されていました。麻の草丈は6尺以上にも達し茎の皮をはいで麻縄などにして利用したものでした。麻の花や若葉には一種の麻酔性物質が少量含まれていて麻畑で作業している人の中には「麻酔い」と呼ばれる症状がでることもあるそうですが当時はそんな話は聞きませんでした。
 また、調味料としての煮干も使われましたが大家族でも一袋が2ヵ月も持ちましたのでほんの少しずつ使ったものと思われます。〔煮干のだしは先祖様の命日には絶対に使わない風習でした〕その他、お汁のだしには打ち豆がよく使われました。
 こんな食生活でしたから、正月の年とり膳につく一切れの塩鮭は何よりのご馳走でありました。