昭和初期の頃の1年の暮らし
                             田辺雄司
 長い冬が漸く終わり4月に入ると、木々の芽はふくらみ山々の残雪も春の陽にゆっくりと解けていきます。小川もサラサラと音を立てて流れ、小川の縁にはフキノトウやカタクリの花が咲きだします。ブナをはじめ多くの木々も若葉を広げ山菜が次々と芽を出します。この頃になると春風は心地よい春の香りを運んできます。まるで天女が大空を舞うような心地がします。
 山の木々ではウグイスなど色々な小鳥のさえずりが聞こえます。残雪も日1日と少なくなり雪解け水に川の水も増えて濁ります。夕方になるとカエルの、のどかな鳴き声が村を包み込みます。
 祝日〔天長節〕の4月29日の頃になると、村の道の残雪も解けて泥んこ道が姿を現します。その道を学校に通うのは大変でしたが、秋の泥んこ道と比べたら楽なものでした。
 こうして、日を重ねるごとに山々の緑は濃さを増して木々の葉も出揃ってきます。
 その頃になると山のあちこちで動く人影が目にとまります。山菜取りの人たちです。お昼ごろと夕方には大きなテゴいっぱいにゼンマイやウド、ノノバをつめて背負って帰ってくる姿には喜びがあふれています。
 やがて、田畑の仕事も始まり、田打ちの牛馬を追う声が聞こえます。この時期が春では一番忙しい。耕し、種まき、植え付けと、この時期を逃したら秋には何も収穫できないという自然相手の農業の厳しさをみんなが知っています。
 畑作物の植え付けも終わる頃になると、さずい〔梅雨〕に入ります。毎日毎日雨の日が続き、7月の下旬になると必ずといってよいほど大雨が降って梅雨明けとなります。その大雨で大水が出て橋が流されたり、土砂崩れがあったりとし災害復旧に村中大騒ぎとなりました。
 こうして、ようやく梅雨が明けると連日晴天がつづきアブラゼミやミンミンゼミの鳴き声がにぎやかです。その猛暑の中で冬季間の牛馬のエサや堆肥にするための草刈りや田の草取りの農作業に精を出します。また、この頃には毎日のように夕立があり、ほんの一時ですが烈しい雨が降るのでした。
 しかし、土用がすぎると暑さは相変わらずですが日陰の色が濃さが増したことが感じられます。
 子どもたちは、夏休みの家の手伝いのお盆掃除や畔草とり、大根畑の鳥追いなどに精を出しました。
 お盆になると、どこの家にもお盆客がやって来て村は急ににぎやかになります。15日、16日には村の神社で盆踊りが大勢のお盆客も参加して賑やかに行われました。
 待っていたお盆も終わると、正月のご馳走として欠かせないソバの種まきが始まります。ソバまきはカンノヤキ〔刈野焼き〕と呼び、夏草を刈り倒してそのまま乾かして火をつけて燃やした後に2、3日がかりで新しい畑にして種をまくのでした。
 また、この頃に達者な人を手伝いに頼んで田堀りをする家も3、4軒はありました。重機のなかった当時の田堀りは専用の大きな鍬とモッコを使った重労働でした。
 こうして8月も下旬に入るとツクツクホウシが鳴きだして、カヤの穂も出始め、それまでの熱風も心地よい涼風に変わり秋を感じさせるようになります。
 9月に入るとあちこちの集落で秋祭りがあり、高学年が上石黒と下石黒の集落の神社に行って祭りの歌を唄うのでした。歌詞は、「この宮前に鎮まりて・・・」という歌い出しであったと記憶します。
 秋祭りが終わると稲刈りの支度が始まります。私の集落〔居谷〕では9月20日の朝早くホラ貝を吹き鳴らしてハサ作りに使うフジッツル〔クズの蔓〕の採取解禁を知らせます。村中の人々が一斉に山に出掛けてクズの蔓をたぐり採って葉は乾燥して家畜の餌にして蔓は主にハサの縦縄として利用しました。
 稲刈りが始まる頃になると学校も一週間ほど稲刈り休みがあり、子どもたちは、田の稲束を畔に運んだり、さらに畔の稲をハサ場まで背負って運ぶ手伝いをしました。当時はもっぱら手刈りでしたから稲刈りが終わるのは10月の下旬でハサにかけられた稲が雪をかぶるということも珍しいことではありませんでした。
 サツマイモやサトイモも霜が降らないうちに掘り起こしよく天日で乾かしてから、囲炉裏の周りに作られた貯蔵穴にモミヌカで丁寧に覆って春まで保存するのでした。家の周りの未だ雪を越せない木々には支柱を3〜4本立てて先端を縄でしっかりとしばって冬囲いをするのでした。
 11月に入ると山々の木々も紅葉し、中旬に入ると木枯らしが吹き木の葉を散らしますと、急に林の中が明るくなります。林床には様々な色の木の葉が落ちています。この頃に、寒くならないと出ないと言われるキノコ「アラレボウズ−クリタケ〕が木の葉ま間から顔をのぞかせています。
 また、この頃は、どこの家でも白菜漬けや大根漬けの用意をしました。近くの小川で白菜を洗う母の手は真っ赤だったことを憶えています。母は時々家に入ってきて囲炉裏に杉の葉を燃やしてあたって冷え切った手を温めてから再び出て洗うのでした。
 新嘗祭〔にいなめさい−現在の勤労感謝の日〕の頃になると霰まじりの雨が降り出し、みぞれに変わり、ついには雪に変わります。こんな時には雪の重みで木の枝が折れる音もします。
 いよいよ雪の冬の到来です。それまで窓の落とし板も上の方は2、3枚はずして明かりをとっていましたが、これを機に全部取り付けます。すると家の中は日中でもうす暗くなってしまいます。
 木枯らしが吹き止むと本格的な降雪となります。大人はこの雪を「風押さき」と呼んでいました。
 積雪が増えると毎日毎日どこの家でも朝から雪掘りでした。コスキを使って本屋の雪を下ろしてから土蔵の雪をおろし、その後で下ろした雪の始末です。漸くそれが終わった頃には再び屋根の雪下ろしをしなければなりません。その合間にはワラ仕事に精を出しながら春の到来を待つのでした。
 2月も半ばを過ぎる頃になると寒気がゆるみ、雨の日もあるようになり、晴天の朝はヤブ〔雪原〕が凍みてかたくなり、子どもたちは朝早くから橇に乗ったりスケートをしたりして遊びました。
 やがて、春霞がひろがる日が多くなり、春の気配を感じるようになります。村人たちの「冬も峠を越えた」などという話声にも明るさが感じられるのでした。
 子どもたちの学校生活でも 教科書も残り少なくなり、そろそろ卒業式の歌の練習が始まる頃となるのでした。