お盆の思い出
                          田辺雄司
 8月7日になると、私たち子どもが墓場掃除に行くことになっていた。その日は朝、家の人から鎌を研いでもらい、足を切るなよと何度も注意されて鎌とホウキを持って出かけたものだった。墓場に着くと子どものいない親類の墓の掃除もすることになっていた。
 墓掃除が終わって帰ると、今度は家の周りや土蔵の周りの平らなところの草取りをした。私の家は屋敷が広かったので、祖父や祖母と一緒にやった。父母は田の草取りで忙しいときであった。
 いよいよ、お盆の13日の墓参りの日には父母は夕方早く田の草取りの仕事をやめて家に帰り、早めの夕飯を食べることになっていた。私たち子どもは、買ってもらったシャツやパンツに着替えて外で大人が来るのを待っていたものだった。
 やがて大人たちも湯からあがって着物を着替えて表に出てくる。
 みんな揃ったところで出発した。火を入れた提灯を持って、大人の前になったり後になったりしてうきうきした気分で歩いた。墓場に着くとロウソクを沢山点けるのであたりが明るくなる。他の家の墓のロウソクもついているので墓場全体が明るく照らされている。
 みんなで墓に手を合わせてお参りをすると親類の家の墓にもロウソクを上げてお参りをした。帰りにはお宮様に寄ってお参りをした。お宮様も沢山のロウソクで境内が明るかった。
 15日の朝は、未だうす暗い内に若い衆が集まり長さ10メートルほどもある幟竿をお宮様の上り口に立てるのだった。その先に幟を下げるといかにもお盆らしい雰囲気になった。
 幟竿は大きな家の軒下に下げて置くのだったが、それをゆっくりと下ろして、大勢で肩に担いで曲がりくねった道を上手にお宮様まで運んだ。お宮様の上り口につくと長いロープを持つ人、竿を持つ人が声をだして力を一つにして立てた。それにロープに結んだ「黒姫神社」とかかれた幟を引き上げた。
 13日の夜からは、村中でお宮様の境内で盆踊りが夜遅くまで行われた。踊りの輪の真ん中には手桶に冷たい水を入れてひしゃくをつけておいて、のどが渇いた人が飲みながら踊ったものだった。 また、15日のお昼には、どこの家でもお昼に赤飯を炊くの慣習であった。その日の夕方は皆が、早めに墓参りに行ってお宮様に集まって盆踊りの始まるのを待っていた。盆踊りは夜遅くまで続いたので子どもたちは途中で家に帰って西瓜やジウリ(マクワウリ)を食べて寝るのが幾晩か続いた。
 しかし、大人たちは13、14日は野良仕事をしていた。14日の夕方はどこの家でもお盆休み中の馬や牛に喰わせる草を刈った。10把も15把も刈り、馬屋の外に日が当たらないようにムシロなどをかけて置いたものだった。
 14日頃になるとどこの家にも沢山の帰省客が来て村は急ににぎやかになった。帰省客は田代までバスで来てそこから歩いて来たので、子どもたちは田代までお客を迎えに行って、帰りも送っていったものだった。
 当時は田代のことを前川と呼んでいた。今では中の坪ダムの底に沈んだが、バス停の所に店があった。

 16日がすぎると待っていたお盆も終わり、翌日からは、大人たちは田堀りやカンノのソバまき、など再び仕事が忙しい毎日が戻った。子どもたちも20日までの夏休みも残りわずかになり、なぜか、お盆が終わると急に寂しいような気持ちになったものだった。